各都市の寺院 emlples

リガ
Riga

ストックホルム
Stockholm

リューベック
Lübeck

コペンハーゲン
Copenhagen

オスロ
Oslo

スカンジナビア半島南部のオスロ湾最奥部に位置するオスロは1050年頃にハーラル3世によって建設された。デンマーク・スウェーデンに対する外交上の要衝でもあり、両国の干渉に苦しんだホーコン5世は1294年にこの地に遷都、同王の治世下でオスロは最盛期を迎え、以後14世紀を通じて貿易の中心地として繁栄し、ハンザ同盟の北欧進出後も彼らの中核的都市であり続けた。しかし14世紀末にカルマル同盟によって政治的地位をコペンハーゲンに奪われ15世紀にはペスト大流行に遭い急速に衰退、1624年の大火で壊滅的打撃を受けた。
現在のオスロ市は、デンマーク・ノルウェー連合王国のクリスティアン4世によって旧市街地の西部に新たに建設された都市で、当時はクリスティアニアと命名されていたが、1925年に現在の名称が復活している。
『激動ユーラシア』より抜粋。)

ハンブルグ
Hamburg

ベルゲン
Bergen

ノルウェー南西部にある同国最大級の港湾都市。1070年頃ノルウェー王オーラフ3世によって建設された。内陸への交通は困難であったが、バイキングの活躍を通じて海上交易の中心地として発展し、12~13世紀にはノルウェーの首都として繁栄した。14世紀中期~16世紀中期にはヨーロッパ諸都市の商業同盟・ハンザ同盟の商館が設置され、ドイツ以外にあるハンザ商館の中では最大規模を誇り北海交易の一大中心地となる。彼らハンザ商人の影響力は19世紀末期まで及んでいる。18世紀以降3度にわたり大火に見舞われた。「ベルゲンの馬は傘を持たない人を見ると跳ねる」といわれるほど、雨が多いことでも有名。
『激動ユーラシア』より抜粋。)

アムステルダム
Amsterdam

アントワープ
Antwerpen

エディンバラ
Edinburgh

ダブリン
Dublin

ロンドン
London

イギリスの首都。1世紀にブリテン島を征服したローマが建設した植民都市ロンディニウムを起源とする。5世紀以降はアングロ=サクソン人が統治、発展し9世紀以降はイングランド王国の首都となった。1066年にノルマン人のウィリアム1世に征服され、防衛強化のためロンドン塔が建設される。12世紀後半以降、プランタジネット朝の諸王がフランス大陸領維持を重視した結果ロンドンの自治意識が高まり市民による行政整備が推進され、また羊毛産業の成立やハンザ同盟の交易所の設置で北海貿易の商業都市の地位を確立したが、政変による混乱や疫病による被害も多く発展は大陸の諸都市に比べると緩やかであった。15世紀末に興ったチューダー朝の中央集権化によってロンドンは本格的に発展・膨張し、17世紀後半にはヨーロッパ最大の都市に成長(人口50万)。1665年のペスト大流行と翌66年のロンドン大火の後は石造・煉瓦建築が推進され城壁も撤廃された。
『激動ユーラシア』より抜粋。)

プリマス
Plymouth

1580年 9月26日、ドレーク艦隊、世界周航を終えプリマスに帰港。

カレー
Calais

ナント
Nantes

ボルドー
Bordeaux

オポルト
Oporto

リスボン
Lisbon

セウタ
Ceuta

セビーリャ
Sevilla

1522年 9月8日、マゼラン艦隊、世界周航を終えセヴィーリャに帰港 (1519-)。

マラガ
Maraga

バレンシア
Valencia

パルマ
Palma

バルセロナ
Barcelona

マルセイユ
Marseille

ジェノヴァ
Genova

北西イタリアの港湾都市。紀元前4世紀にギリシア人が定住しローマ帝国の支配下では自由都市として繁栄、11世紀に都市国家に成長、サルディニア・コルシカ両島にも勢力を伸ばした。12世紀には十字軍に海軍を提供、その戦利品で莫大な利益を獲得、またビザンツ帝国との友好関係を利して地中海のみならずエーゲ海・黒海の各地に商館を持つ一大海上勢力となり、13世紀後半に最盛期を迎え教皇庁とも対等な関係持つに至った。この頃より交易の競争相手ベネチアとの対立が激化、数度にわたる戦争の末1380年のキオッジャの海戦で敗北し地中海の覇権を失った。ジェノヴァ市民は徹底した個人主義で自身の利益を追求し同市の繁栄の一因を担ったが、そのため内部抗争も絶えず自身の弱体化をも招いたのである。
16世紀に内紛を収拾した後は造船業・銀行業で台頭し海上保険・合資会社といった新システムを考案。ナポレオン戦争で独立を失った後サルディニア王国の支配を経てイタリアに編入された。
『激動ユーラシア』より抜粋。)

アルジェ
Algers

1516年 オルチ・レイスとバルバロス・ハイレッディーン、アルジェを占領し、スペインのアルジェ救援艦隊を撃退。
1519年 アルジェリア王バルバロス、オスマン朝に帰属。
1541年 ハサン・アー、カール5世のアルジェ攻撃を撃退。

チュニス
Tunis

地中海に面する北アフリカの港湾都市でマグリブ東部の中心的存在。
紀元前6世紀頃、古代カルタゴの南西部にフェニキア人の植民都市として建設された。一時はローマの攻撃によりカルタゴ共々滅ぼされたが7世紀にイスラム帝国の支配下で城塞都市として復興、13世紀前半にハフス朝の首都となってからは地中海交易により経済・文化両面で繁栄した。1270年にはルイ9世率いる十字軍の攻撃を撃退。ハフス朝滅亡後はスペインの占領を経てオスマン帝国の支配下に入り、交易とアラブ海賊の活動拠点として重視された。
『激動ユーラシア』より抜粋。)

1533年 8月、バルバロス、バヌー・ハフス一族を追放し、チュニジアを征服。
1535年 7月21日、カール5世、チュニスを占領。
1570年 1月、ウルチ・アリー Uluç Alī 、チュニスを占領。
1572年 10月、アウストリア公ドン・ファン、チュニスを占領。
1574年 8月24日、スィナーン・パシャ Sinān Pasha 、チュニスを奪回。

トリポリ
Tripoli

1551年 8月14日、トゥルグト・レイース Turgud Reīs 、トリポリ・ベンガジを占領。
1590年 トリポリで蜂起。翌年、指導者が裏切られ鎮圧。オスマン政府は不干渉(=北アフリカの準独立)。

ナポリ
Napoli

南イタリアにおける最大級の港湾都市で古代ギリシアの植民市・ネアポリスが起源。ローマ帝国時代には富裕層の別荘地として栄え、ローマ滅亡後長期の混乱を経て12世紀前半にノルマン人に征服されシチリア王国領となった。1268年にシチリア王シャルル=ダンジューが王国の首都をナポリに移転。1282年のシチリアの晩鐘事件でシチリア王国が分裂した後はナポリ王国の首都となり、フランス・スペインによる争奪戦の後16世紀前半からスペインの支配下に入った。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が1224年に創立したナポリ大学は多くの文人を輩出しこの地を西欧文化の先進地たらしめ、産業面においても羊毛・絹織物工業の発展で充実、19世紀後半まで南イタリアの文化・経済の中心であり続けた。1861年にイタリアに編入された。
『激動ユーラシア』より抜粋。)

シラクサ
Siracusa

ヴェネツィア
Venezia

イタリア北東の港湾都市。6世紀頃に東ゴート王国とビザンツ帝国の戦争を避けたイタリア住民がアドリア海最奥部の島々に移住したのが起源である。成立直後はビザンツ帝国を宗主国としたが697年にベネチア共和国を形成、10世紀までに商業上の一大拠点に成長、イスラム諸国をも対象とした東方貿易で繁栄した。1203~04年には第4回十字軍を利用してビザンツ帝国など商業上のライバルを打倒、東地中海に多くの植民地を獲得、その後も強力な海軍をもって1世紀に及んだジェノヴァとの戦争に勝利する。都市国家としての政治形態も世襲議会をベースとした商人・貴族の集団指導体制が確立し他のイタリア諸都市と一線を画した。
15世紀前半に最盛期を迎えた後はオスマン=トルコの圧迫や大航海時代のスペイン・ポルトガルによる遠洋航海路の開拓により軍事・商業両面で衰退、ベネチア共和国も1797年にナポレオン1世に滅ぼされた。その後オーストリアの支配を経て1866年にイタリア王国に編入された。
『激動ユーラシア』より抜粋。)

1569年 ヴェネツィアの国営造船所、火災。

ラグーザ
Ragusa

サロニカ
Salonika

カンディア
Candia

ファマグスタ
Famagusta

1570年 2月27日、オスマン朝の使節、ヴェネツィアにキプロス島の返還要求を通達。
1570年 3月17日、ヴェネツィア、オスマン朝に宣戦布告。
1570年 7月1日、オスマン軍、キプロス島遠征開始。
1570年 9月8日、ニコシア Nicosia 占領。
1571年 5月25日、オスマン朝に対する神聖同盟の結成(ローマ教皇・スペイン・ヴェネツィア・マルタ騎士団・ほかイタリア諸国家)。
1571年 8月1日、ラーラー・ムスタファ Lālā Mustafa 、ファマグスタ Famagusuta 占領。
1571年 10月7日、レパントの海戦。
1573年 3月7日、ベネチアと講和。キプロス島、ダルマチア地方の併合。

ベイルート
Beirut

ヤッファ
Jaffa

アレクサンドリア
Alexandria

カイロ
Cairo

西アジア最大の国際都市で、アラビア語ではカーヒラと呼ぶ(カイロはイギリスでの呼び名)。
エジプトのナイル・デルタのほぼ頂点に位置するこの地域にはローマ人やアラブ人により軍事都市が築かれていたが、現在の都市は969年にファーティマ朝が建設した要塞都市に始まる。カーヒラ(勝利者を意味する)と命名されたこの都市は同王朝の首都となり11世紀以降バグダードの衰退に伴いイスラムの政治・文化の中心地に成長した。サラディンもこの地の発展に意を用い巨大城砦を築城、13世紀には十字軍の攻撃を撃退した。マムルーク朝の首都となってからは東西通商の一大中心地となり香辛料貿易の独占で全盛期を迎える。
しかし14世紀中期の黒死病流行で人口が激減、大航海時代にポルトガルによるインド航路が開拓されて交易面でも大打撃を受け衰退が進み、1517年にオスマン帝国に占領された。その後18世紀末にナポレオンの攻撃に遭い、19世紀にメフメット=アリーによるエジプト近代化政策で復興する。
『激動ユーラシア』より抜粋。)

1517年 1月22日、セリーム1世、レイダーニーヤ Reydāniyya の戦いに勝利し、カイロに入城。
1517年 トゥマン・ベイ Tuman Bay 、カイロでレジスタンス活動を展開。

イスタンブル
Istanbul

黒海・地中海を結ぶボスポラス海峡南端に位置する要衝中の要衝で、紀元前7世紀に建設されたギリシア植民都市ビュザンティオンにはじまる。黒海交易の通行税徴収で栄えたこの都市は、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世により帝都に定められ彼の名を冠したコンスタンチノープルと改名、その繁栄振りを賞賛され「第二のローマ」と称えられた。413年にテオドシウス2世が大城壁を築き防衛体制を確立、以後この城壁はササン朝・アラブ人・ブルガリアの度重なる包囲を撃退した。ローマ帝国が東西に分かれた後は東ローマ・ビザンツ帝国の首都となり、537年にはユスティニアヌス1世がアヤ=ソフィア大聖堂を建立し東方正教会の中心都市としての権威も不動のものとした。7世紀に相次ぐ外敵の攻撃や疫病で衰退するも、9世紀には人口数十万の国際都市に成長、ギリシア・ローマ・キリスト教文化が融合した独自のビザンツ文化が発展し黄金時代を迎えた。
11世紀以降ベネチアらイタリア諸都市の台頭により交易上の優位を失い、1204年に彼らの主導する第4次十字軍により攻略され壊滅的打撃を受けた。ビザンツの首都奪回後は学問・芸術を中心とした宗教・文化都市であり続けるも商工業の衰退著しく人口も激減。この地が再度繁栄するのは1453年にオスマン=トルコ皇帝メフメット2世によって征服され、その名も同帝国の新首都・イスタンブールと改名されてからである。
『激動ユーラシア』より抜粋。)

1556年 8月16日、スレイマーニエ・モスク落成。
1584年 オスマン政府、通貨を 50% 切り下げる。イスタンブルで著しく物価が高騰。
1588年 シャー・アッバースの外交使節団がイスタンブルに至る。
1589年 4月3日、イスタンブルにおいてイェニチェリ蜂起。劣悪な貨幣の支給が原因。財務長官の解任を要求。財務長官の1人が処刑されて解決。
1590年 イスタンブルで疫病が蔓延。
1593年 1月27日、イスタンブルにおいてスィパーヒー反乱。
1593年 スィパーフ(近衛騎士)の蜂起。劣悪な貨幣の支給が原因。財務長官の絞殺を要求。宮廷の庭番などにより鎮圧。
1598年 イスタンブルでイェニチェリの蜂起。劣悪な貨幣の支給が原因。

カッファ
Kaffa

1583年 6月6日、ダゲスタン総督オスマーン・パシャ Özdemir-oğlu Osmān Pasha 、ベシュ・テペ Besh-Tepe の戦いで勝利を収め、カッファを経てイスタンブルに凱旋。

トレビゾンド
Trebizond

マディラ
Madeira

ラスパルマス
Las Palmas

ソファラ
Sofara

1585年 ミール・アリー・ベイ Mīr Alī Bey 、東アフリカ沿岸一帯を略奪。モンバサが服属。4年後、沿岸一帯に拡大した反乱で艦隊が壊滅。

アデン
Aden

1538年 エジプト知事スレイマーン・パシャ Hādım Süleymān Pasha 、ポルトガル領ディウ島包囲に失敗。帰途、イェメンを征服。
1568年 アデンにおいてムタッハル Mutahhar に率いられたザイド教徒 Zaidite が反乱

マッサワ
Massawa

スエズ
Suez

1538年 ポルトガル艦隊、ジッダ港及びスエズの造船所を攻撃。撃退される。
1586年 スエズ運河掘削工事着工。

マスカット
Muscat

1551年 ピリー・レイス、マスカートを占領しホルムズを略奪。ポルトガル艦隊にホルムズ海峡を封鎖され、撤退。
1553年 セイディ・アリー・レイス、オマーン沖でポルトガル艦隊を撃破。グジャラートに達す。

ホルムズ
Hormuz

1551年 ピリー・レイス、マスカートを占領しホルムズを略奪。ポルトガル艦隊にホルムズ海峡を封鎖され、撤退。
1552年 ムラト・レイス、ホルムズ海峡でポルトガル艦隊と決戦し、バスラに退く。

バスラ
Basra

1552年 ムラト・レイス、ホルムズ海峡でポルトガル艦隊と決戦し、バスラに退く。

ゴア
Goa

カリカット
Calicut

インド南西部、ケーララ州マラバル海岸の港町で、現在名はコジコーデ。
7世紀以降アラビア人の南海貿易によって栄え、イブン=バットゥータも来訪しその繁栄を見聞した。15世紀末にヴァスコ=ダ=ガマの来航によりヨーロッパとの貿易も開始され綿製品・香辛料が輸出される。その後オランダ・イギリスの支配を受け、各国間での争奪戦により荒廃、復興後も南方のコチンの台頭に苦しんだ。カリカットは白木綿地・キャラコの語源としても有名だが現在では綿製品は衰微、香辛料の他に木材・コーヒーの輸出で知られる。
『激動ユーラシア』より抜粋。)

コーチン
Cochin

セイロン
Ceylon

マスリパタム
Maslipatam

カルカッタ
Calcutta