Report of a Tour around Turkey in Sep 1999


3rd Sep., Narita; (GMT+09:00)10:20
チェックゲート内の両替所で円をドルに替える。この際、『モノポリー』を参考に「1$ を 5枚、5$ を 5枚、10$ を 5枚、20$ を 6枚、50$ を 2枚、残りは 100$ とその他で」と指示。局員を困らせ、時間を浪費する。結局、10時30分ゲート締切、10時40分発の飛行機には走って乗り込むことに。同行者・白石は両替できず。
3rd Sep., (Plane)
食事にはワインが付くとの由、昼食には肉料理を頼んでいたので赤ワインを所望したく思う。先方が "Which's the wines?" と聞いているのに、丁寧に "Wine, Red"と答えると、白ワインを注いでくる。「ワイ」の発音が "White" に聞こえたようだが、そのときの私は「ワインはやはりフランス語か?」と思う。そして夕食。"Le Vin Rouge. (ル・ヴァン・ルージュ)"、通じない。発音が良くないらしい。"Rouge Wine" / "Oh! Ok."、またもや白ワインが注がれてしまう。「赤ワイン」は何と言うのだ? アメリカで "Ice Coffee" と頼んで氷とホットコーヒーを持ってこられた小堺一機の二の舞を演じるわけには行かない…。しぶしぶ白ワインを飲みながら辺りの客の声に耳をそばだてる。すると、"Red." / "Yes."。あぁ、あれだけで良かったのだ。よし、次は必ず…。"Red, please." / "Yes."、12時間の苦闘が報われる至福の味…。しぶ…、白の方がおいしかった。
4th Sep., Dubai; (GMT+04:00) 2:50
ドバイにトランジット。真夜中なのに暑い砂漠の街だ。よくこんなところでサッカーをやると感心する。降りてはいけない指示が出ていたようだが、腰を伸ばしたい私にはそもそもマレー訛りの英語を理解できず、堂々としてタラップを降りた。タラップの下にはバスが待っていた。バスで5分くらい走ってターミナルへ、ターミナル入り口ではトランジット・プレートを配っていたが、この飛行機からは我々だけのようだ。一番乗りだと思っていた。空港の中はどこもアラビア文字だった。私もアラビア文字は書けるが、読むことは出来ない。子音のみで表されるアラビア語は単語を知らなければ読めないのだ。"Departure" を探すのが先決、と白石はそれらしき辺りをうろつくが、私は隅っこで一服。眠さが楽天家振りに磨きをかけている。すると、私に声をかけてくる謎のターバン男が登場。愚かにも私に道を尋ねる。"Excuse me. Where is the 11th Gate?" / "Sorry, I..., I don't know. Oh! There is the information center! You should ask him!"。何? インフォメーション・センター? 白石も俺も今までどこを探していたのやら。得意満面で白石にセンターを教え、ゲート番号を教わり、安心してショッピングが出来た。さて、近代化したトルコでターバンを買えないことを予測していた私はそれのみを目指す。ドバイにしろ、帰りも来れるとは限らないではないか。あれこれ見たが、ターバンとはいえ白一色ではないことを知らされる。だが私の欲するのは「ロレンスのターバン」であって「アラファトのターバン」ではない。ようやくお目当てのものを見つけ、レジに持っていくと、レジの人は首をかしげて奥から2着の白いターバン・セットを持ってきた。そして一方の包みビニールを破って、中身を肩に合わせた。"This suits your size!"。といって、新しい方、おそらくは大きいサイズの方を袋に入れてくれた。"Thank you very much." しか返す言葉を知らない私は「ありがとうございました」と言って頭を下げた。私もやはり日本人らしい、自然と頭が下がる。だが相手は怪訝そうだった。彼らにしてみれば合掌した方がよほど日本人らしく見えるのだろう。
あ、ターバンセットは私のサイズ(身長188cm)で $ 46.00 でした。

4th Sep., Istanbul Airport; (GMT+03:00) 7:30
イスタンブルに降り立つ。実は私はツアーには反対していた。ツアーは忙しいし、妙なことに時間を取られるし、トルコに来るようなのは気違いじみた男と化粧っけのない女くらいだろうと信じていたからだ。だが、ツアーの一行がそろったところで、気違いじみているが自分たちだけであることに気付かされた。
4th Sep., Sultan Ahmet Camii; (GMT+03:00) 8:30
憧れた2000年の都、イスタンブルに入る。私にとっては初めて目にするものはない、すべては「確認」であった。イスタンブルに関して、トルコに関してどれだけの本を読んできたことか。ミナレットが6本立つモスクが見えてきた。「あ、あれはミナレットが 6本あるからスレイマニエ・ジャミィだね。」━スレイマニエ・ジャミィはオスマン朝の最盛期である16世紀に、ときのスルタン・スレイマンのために、オスマン朝を通じて最高の建築家とされるミーマール・スィナンの建てたモスクで、その内容積は今でも世界最高の建築物である。彼が最高とされるのは、イスラム建築で初めてデザインを意識してモスクを建てたためでもあり、彼は片側に 3本ずつのミナレットを建て、全体の雰囲気を統一したのであった。だが、イスラム教最高の聖地であるメッカのカーバ神殿もミナレットは6本であり、人々にはそれを超えるのは不敬とも取られた。だがスレイマンも粋なもので、カーバ神殿の方にミナレットを1本足して、あちらを7本としたのである。こうした史実を踏まえての、先の知ったかぶりの発言であったのだ。だがすぐにガイドのエルジュさんが、「あれが、有名なブルー・モスクです」。…。私は自分の専門の16世紀より先はあまり知らないのであった…。 モスクは神戸でも見ていましたが、あれは masjid で、ブルー・モスクなどのより大きな cami は初めてでした。有名なタイルもそこそこにその広さに圧倒されていました。ここの庭で、トルコの烏もはじめて見ました肩口の青いその烏なら、「青い鳥」とも見えるだろうと思ったのでした。
4th Sep., Aya Sofya; (GMT+04:00)10:30
アヤ・ソフィアはブルー・モスクに比べ、重厚な、とても重厚な造りです。これだけの大伽藍を支えるための柱群は、後に見るカッパドキアの地下都市を思わせます。故宮崎市定教授が「キリスト教は地下の宗教、イスラム教は天上の宗教」と言ったのも頷けます。
空港からここまでタバコをずっと我慢していた私は思い余ってエルジュさんに「ここはタバコ吸っても大丈夫ですか?」と聞くと、「モスクの中はダメです。」と厳しく言われる。そうだよね、モスク敷地内のレストランでは酒も売られないって聞いてたし。がっかり。すると彼は私が取り出そうとしていたタバコを見咎めて、「ああ、ここなら吸っても大丈夫ですよ。」と教えてくれました。「でも、吸った後はどうしましょう? 街には灰皿が見当たりませんが?」「?」「トルコでは吸殻を捨てたりしたら怒られないんですか?」「ああ、もちろん良くはありませんが、みんなそのまま捨てています。」「日本では最近タバコを吸う人が嫌われていましてね…。タバコを吸う人間はバカだと見なされるんです。」「ならトルコ人はバカばかりです」。以後、二人はタバコ友達になったのでした。
4th Sep., Topkapi Sarayi; (GMT+04:00)13:00
ボスポラス海峡を眼下に眺めるトプカプ宮殿の一角で昼食と相成る。日本では和・洋・中が世界の三大料理だが、世界的にはフランス、トルコ、中国かどこかのアジア(人による)という評価が一般的である。だが、かつて渋谷で食べたトルコ料理はとても5000円には釣り合わない味であった。原宿で売ってるドネルケバブの方がよほどうまい。それはともかく、だからこそ本場のトルコ料理には期待していたのだ。だが、酸っぱい、しょっぱい、この二語に尽きた。敢えてもう1語足すなら「まずい」であろう。だが、「世界の珍味」などで、現地人の感情も気にせず悲鳴を上げるリポーターを心から憎んでいる私にはその一言は言えなかった。「ここは観光客向けだから…」、と自分を励ますのであった。(早くも、その晩の食事では美味しいトルコ料理を堪能できました。)
トプカプ宮殿は秘宝の宝庫である。世界第五番目の大きさを誇るダイヤモンドや映画『トプカピ』で有名になったエメラルドの剣などもあるが、何より驚くのはソロモン王の剣であり、モーゼの杖であろう。これに先だって、預言者ムハンマドのひげが盗まれたとかで警戒が厳重になったらしいが、日本の博物館に比せば、私でも盗めそうな警備であった。
4th Sep., Kapali Charshi; (GMT+04:00)15:00
これから1時間のフリータイムである。ほとんどの人はエルジュさんと行動をともにしたらしいが、もちろん私は単独行動だ。だが初めての街で緊張したのか、筆箱を買うと、すぐに喫茶店に入った。まだ慣れていない頃のことだった。"Excuse me. I want to something to drink. Can I use US dollers here?" / "Yes. What do you want?" / "U~n, chai, one chai please!" / "Ok." / "How much?" / "Three hundreds." / "Three hundreds!?" / "Yes!"。しまった!日本人だと思ってぼったくるつもりか? と警戒していると、相手は茶色い10万トルコリラ札を出して、指を三本立て、"Three hundreds."。"O~h, I see, I see, I thinked 300 $ is for chai!" / "Ha,ha, You are very rich!"。まだこの頃は緊張と恐怖で一杯だったのです。ちなみに30万リラで70円くらいです(当時)。
お茶を飲んで、念願のフェス帽も買い、後はぶらぶらしてました。あの一件でトルコ人と交渉できると確信した私は一人でタバコも水も買えました。さて、フェス帽です。お爺さんに、"Is it suit for me?" / "Yes! Yes! You look very good!" とおだてられ、ご機嫌でかぶってました。これは後日のことですが、白石の「グランド・バザールって新京極みたいだったね。」言葉に大変ショックを受けました。すると私は新京極でご機嫌でちょんまげをかぶっているアメリカ人と同類ではないですか! さて、旅行時には時間を守る私はもちろん4時には待ち合わせ場所のヌール・オスマニエ門で待っていましたよ。みんなも揃ってきます。しかし一人足りない。この後、常習となる木幡君の初犯でした。で、私はエルジュさんに持ちかけられました。「岩崎さん、門の前で立っていてもらえませんか?」ああ、背の高い者の宿命はここでも逃れられないのでした。かくして「新京極のちょんまげ外人」は人通りの多いところでぽつねんと立たされたのですが、こんな面白い人間をトルコ人がほっとくはずもありません。"Can I take photo you with us?" / "は? あぁ…、Ok, Ok."。ああ、もう木幡君も来てるのに、わたしゃ見知らぬトルコ人と写真取ってるよ…。

5th Sep., Dolmabahche Salayi; (GMT+03:00) 9:30
19世紀に建てられたこのロココ調の宮殿は確かに壮麗であるが、壁はタイルなどではなく漆喰に絵を書いただけで、当時のオスマン朝の財政を偲ばせました。門前に立つ兵隊さんは微動だにしません。誇り高く任務を遂行しているのです。一緒に写真を取っても眉一つ動かしません。鼻をつまんでみたい誘惑に駆られましたが、それは後日の考古学博物館のアウグストゥス像のためにとっておきました。
5th Sep., (Bus);
イスタンブルは超過密都市です。あんな狭いところに1200万人も住んでいるんですから。そのくせ、街を抜けて 20km も走ると、何もない、看板すらない草原が延々と続きました。ああ、これが常に外敵を意識し城郭内に都市を築いた大陸と日本との違いなのだ、と、これから10日間もずっと見ることになる風景を飽きもせず眺めていたのでした。
5th Sep., Gelibolu; (GMT+04:00)17:30
オスマン朝の海軍基地であり、世界最古のアメリカ地図を残したピリー・レイス提督や、私の卒論の題材であった政治文学作家ムスタファ・アーリーの故郷である古い港町です。が、今は何もありません。憧れの鯖サンドも冷めててあまり美味しくなかったです。
ここからフェリーでアジア側に渡りました。途中イルカも見ました。私は船内でチャイを飲んでいましたが。


6th Sep., Troy; (GMT+03:00) 8:30
言わずと知れたトロイであり、ローマ人の故郷でもあったりしますが、今はほんとに廃墟で全て手付かずで残っており、わざとらしい木馬のみがその存在を主張しています。ここでは犬と猫が遺跡を案内してくれました。
6th Sep., Pergamon; (GMT+03:00) Noon
山の上の城塞都市の跡です。篭城する人の気持ちというのが今まで分かりませんでしたが、この山に登ると、確かに十万人攻めこんできても追い帰せそうな気がしました。ここのオデオン(野外劇場)は半壊していましたが、白石はそれを見て「せっかく演説するつもりだったのに」と、愚かな冗談を飛ばします。この先何度も遺跡は在るのですよ。
6th Sep.; (GMT+03:00)15:00
トルコ石の直販店に来ました。愛すべきトルコの若い女性が10人くらいいて、みな日本語で応対してくれます。買うものも決めてたし、安いと思ったら値切らない性質だから、せっかくの話す機会もそこそこにチャイばかり飲む羽目になりました。帰りしな、全員にくずトルコ石のアクセサリーが配られましたが、手ずから胸に着けてくれただけで嬉しかったのに、私が妹のアクセサリーを買ったのを覚えていてくれて、妹の分までくれました。バスに入って、「お持ち帰りしたかったねぇー」と白石とつくづく語ったのでした。さて、このくずトルコ石、結局私は常にシャツに付けることにしましたが、後に汗でぬれるとシャツに緑色の染みが付くことが発覚。「ま、一度付いちゃったんだから」と、付け続けた私もまた安いですね。
6th Sep., Izmir; (GMT+04:00)18:00
今夜の街はトルコ第二の都市、イズミルです。オスマン時代、アレッポなどのシリアの町々がベドウィンに脅かされ、オスマン朝もそれを制止できなくなると、シルクロードの商品はこの街に流れ、さらには地中海経由でヨーロッパにもたらされるようになりました。エルジュさんとタバコ友達になって、そのたびにトルコの素晴らしさを語っていましたが、とくにトルコ女性を誉めていました。きりりとした眉、二重のまぶた、澄んだ茶色い瞳(人によるけど)、滑らかで白い肌、さらりと軽い髪、そして何より、目が合うとややはにかんで目をそらす仕草。で、イズミルに入って、バスの先頭にいるエルジュさんからバスの後ろにいる私に、「岩崎さん、イズミルの女性はどうですか?」/ "Guezel ! (トルコ語で fine くらい意味の広い言葉。素晴らしい、きれい、美味しい)"。やれやれ、25歳にしてすっかりおじさん感覚です。
今回靴は、動きやすいもの、ということで高校のときに使っていたバッシュを持っていきました。が、7年頑張ってきた靴はもう限界でした。ペルガモンで飛んだり跳ねたりしていたら、靴底がはがれてしまったのです。そこで靴を買いに行きました。靴屋のお姉さんは英語がまるで通じませんでした。必死で私に「42?」ということを訴えたいようです。私も必死に「28cm」ということを伝えようとしました。結局、42 とはサイズだったんですね。しかも測ってみたらやっぱり 42 でした。さすがに商人の街の商人ですね。革靴しかなかったのでそれを買いました。値段は800万リラ。旅行中は歩きにくくて嫌っていましたが、日本に帰って良く見たら、浅草でも1万6000円はするであろういい靴でした。ほんと、靴屋のお姉さんには失礼しました。
夕食後、私と白石は再び街に出ました。一杯引っ掛けるためです。伝統音楽のライブのやっているロカンタ(居酒屋)があったので、そこに入りました。頼むのはもちろんラクです。外で食事のために金を使うのを嫌う白石は、自分はチャイにする、というので、店員に "Do you give me chai? Can I order chai?" / "Chai? Ha, ha! You should drink Raki!" 笑われてしまいました。ま、そうでしょう。彼はタバコも吸えないので、ただ私が飲んでいるのを見ていました。で、そこは路上の席だったんですが、いろんな人が来ます。風船売り、バラ売り、そして乞食。乞食の兄弟がやってきて、兄が "Hungry..." と死にそうに訴えます。そこで、パンを与えると去っていきました。弟も来ました。パンを与えると、受け取らず、"Para Para!" だって。金くれと言うのです。困っていると、白石が「しっ、しっ」と追い払ってくれました。
2人で(というか)500万リラだったけど、さすがに私がもって、気分直しにチャイを飲みに行きました。よく覚えてないけれど、隣の席のおじさんと話して、自分たちが日本人で、トルコを愛している旨を話すと、店の主人はチャイ代を取りませんでした。ラクと乞食ですっかり怒っていた白石ですが、「なんていい人たちなんだろう!」とすっかり有頂天です。安い奴…。

7th Sep., The House of Virgin Mary; (GMT+03:00) Morning
昔々、イェスが磔刑にあった後、聖母マリアはこの地まで逃れてきたそうです。ここには女の子にしかアクセサリーを配らないイタリア人神父がいます。彼によれば、2000年8月25日、この地にイェスが降臨するそうです。来年、イェスはあちこちに出張で忙しそうですね。
私はイスラム教の国を研究しているけれど、この宗教は偶像禁止でグッズが少なくて困る。仕方なく、近いところでキリスト者グッズを収集しています。ここのみやげ物屋のおかげで、私の部屋のコレクションもさらに充実しました。
7th Sep., Service Aria; (GMT+03:00) Morning
バスがサービス・エリアに止まる。日本を離れて3日目であり、みなそれぞれ日本に電話をしてみることにする。日本に電話する、というのは私の見る限り全員、あとにも先にもこれ1回だけだったが、たぶん、みんなすっかりトルコに慣れてしまったのだろう。
私はなんとしても家に電話する必要があった。なぜなら、ギリシアで大地震(震度5)が起こってしまったからだ。
この旅行の直前にトルコで大地震が起こってしまったわけだが、私はこの旅行を春から予定していた。当然父は危険だと反対していた。そこで、私はじゃあギリシアにする、と偽って家を出たわけだ。そういう事情を抱えた中、朝ホテルで「ギリシア大地震」のニュースを見たわけである。家に電話せねば。
ところが電話すると思いがけず、母は私の健康や洗濯物のことなどを矢継ぎ早に聞いてきて、私に余計なことを言わせるひまを与えなかった。助かった、のだろうか?
ちなみに、私は今でも家族にはトルコに行ったとは言っていない。この旅行について触れるときは「あの旅行」とか「地中海に行ったとき」とか言っている。
7th Sep., Ephesos; (GMT+03:00) Noon
朝から昼まで、かの公会議の街、エフェソスです。431年、ネストリウス派が異端にされた会議です。ちなみにこの派はイエスは人間であるとし、三位一体を否定しました。今ではすっかり復元されて、一大観光地です。日差しが強く、アメリカ人などは上半身が男は胸毛を出し、女は水着です。どうしてああなんでしょ? さて、ここには立派なオデオンがありました。「白石君、演説お願いします。」「じゃあ、岩崎のことでも語ろうか」。軽率なのは私のほうでした。

12th Sep., Taksim; (GMT+03:00) Morning
前夜、ホテルのあるタクスィム地区から1つ地区を挟んで向こうのオスマンベイ地区で爆弾テロがあったことをニュースで知り、やっぱり「危険度1だけのことはある」とか思ったんですが、街が何事もなく動いているので、何事かあったときテロに慣れてない国よりも楽かも、とかも思ったりした。

13th Sep., Near Suleymanie Camii; (GMT+03:00) Afternoon
イスタンブル一人ぶらり旅の2日目のこと。
私はそのとき、スレイマニエ・ジャミィの街壁の廻りを歩いていた。そこは本来2車線くらいの道だが、通りの脇にある店々が商品やらテーブルやらを道にまで拡大して配置しているので、1車線分しかスペースがない。車が通り過ぎるとき、歩行者は壁に張り付くような感じになる。
そして地震が起こった。
長屋風の商店が棟ごと揺れる! 車は渋滞していて逃げるところはまったくない! まさに、絶体絶命のピンチ・・・、なんですが、震度は3~4くらいでしょうか? 関東地方に25年暮らす私にはまったく怖くなかったんです。
でも、この日、先々で会うトルコ人全員が地震を話題にしていたし、白石の話では(彼は別の場所にいた)路上に泣き伏してしまう女性もいたとか。関東地方に住んでいる、というのは人間性からかけ離れた行為なのかもしれない、とか思いました。

14th Sep., Egyptian Bazaar; (GMT+03:00) Afternoon
イスタンブルには二つのバザールがある。バザールとは市場であるが、400年前は国営の立派な建物で、国王が宗教寄進のためにモスクとバザールを同じに建て、バザールの利益をモスクの維持費に当てたのである。これをワクフ制度という。したがって、立派な施設であり、市場全体が石造りの壁と屋根に覆われている。さて、二つのバザールのうち、有名なグランド・バザールは、古く、ローマ時代に遡るもので、今は金銀宝石、絨毯、土産物を売っていて観光客向けである。商人も巧みなもので、「バザールでござーる」などといって客を呼び、負けるよう要求すると、「あんた関西人?」などと返す始末。一方のエジプト・バザールは港のあるエミニョニュ地区にあり、17世紀に香辛料をさばく市場から始まったとか。今も香辛料を中心に食料や日用雑貨を売る市民のためのバザールである。当然、こちらのほうが活気があり、奇妙なものがたくさん売っている。で、私もグランド・バザールに行ったのは初日だけで、あとは時間が余るとエジプト・バザールをぶらつくのであった。
さて、9月14日のエジプト・バザール。植木屋さんに熊手が立てられていて、それに奇妙な刃物がぶら下がっている。金色の、死神の鎌の刃だけのような代物で、長さは80cmほど。「あれは日本には持っていけないよな。」と思って通りすぎたけど、「いやいや日用品、たかが知れている。」と思い返し、バザールをもう一周して手にとってしまった。店員が寄ってくる。"Is this a saw ?" と、それを水平にして木を切る真似をしてみると、相手はあいまいにうなずく。そこで、"Or a sickle ?" と、麦を刈る真似をすると、さっきより反応がよかったので、多分これは手鎌であろうと判断。"How much this is ?" / "Twelve millions (Turkish Liras)!" (=3000円弱)というわけで、私はほくほくとしてホテルへ帰ったのでした。
14th Sep., Istiklal Caddesi; (GMT+03:00) Night
念願のハンマームですっかり良い気持ちになって、ギョズレメというトルコ風のピザを食べて満足し、ホテルへの帰路に着いたとき、前方から見覚えのある日本人が…。「林佳世子先生だ!」と気づいて、無視しようか…、とも思ったけど、足を止めてこちらを凝視する背の高い日本人に向こうも気づいてしまった。
「あら~岩崎君じゃない。奇遇ねぇ~。ずっとこちらにいるの? 何か困ったこと無い?」
はう~、いい人だ。こちらは硬直したまま、さっき行ってきたハンマームのことなどを話し、とりあえず分かれたのでした。

15th Sep., Istanbul Airport; (GMT+03:00) 13:30
9月15日、空港には友達になったトルコ人、Ercument Ozden (34歳)さん(日本語可)が見送ってくれた。問題の鎌はビニール袋で4重に包み、やはりエジプト・バザールで買った75000トルコリラのビニール・テープでぐるぐるにしておいたが、やはり咎められた。だがこのとき Ercu さんが先方を説き伏せて、機内に持ち込まないならよい、ということになったのでした。私一人では無理だったでしょう。ありがとう、Ercu さん。

16th Sep., New Kuala Lumpur Airport; (GMT+08:00) 7:30
私たちは成田からコタキナバル(マレーシア領ボルネオ)、クアラルンプール、ドバイを経てイスタンブールへ行き、同じ道程で帰ってきました。コタキナバルはリゾートだし、クアラルンプールは私たちのようにマレーシア航空を使って各国へ行くハブ空港になっているので、成田からこの間の乗客は日本人が多いです。日本人は8時間きっちりと座っています。指定されたシートに座って本を読み、眠るのです。これに対して、クアラルンプール~イスタンブール間は、ドバイが商業センターになっていることもあり、イスラム教徒らしい人々が多数派になります。彼らは好きな席に移り、隣人と大声でしゃべりあい、眠るときは4列シートに横臥します。私も、行きは日本人らしく指定された席から離れませんでしたが、帰りは彼らに習いました。あっという間のフライトに感じられました。このやり方、お勧めします。
ここでのトランジットは非常に長く、帰りの便は 23:30 。せっかくのマレーシアです。私と白石は新しい街クアラルンプールではなく、かのマラッカに行くことにしました。
マラッカまでは世界地図で見ると数ミリ程度ですが、300km 程あります。成田でトランジットが長いからといって名古屋まで日帰りで行く人がいるでしょうか? でも気になりませんでした。マラッカまでのバスでも寝てましたから。考えてみると危ないですよね、現地の人も普通に使う長距離バスですから。私たちは2週間に及ぶトルコ滞在ですっかり汚れはて、よほどしけた旅行者に見られたのでしょうか? 幸運でした。

17th Sep., Narita; (GMT+09:00) Morning
そして9月17日、成田に到着。面倒にならないように、税関で予め申し出ることにする。
「これは何ですか?」/「鎌です。」/「カマ?」/「鎌です。麦なんか刈ったりする。」/「…。調べさせてもらってかまいませんか?」/「どうぞ。」(あくまでにっこり)
調べられている間に同行の友人、白石君のほうが終わり、こっちへやってきて、「何やってんだよ。」と苦笑する。「やっぱり捕まっちゃったねぇ~」と苦笑で返す。すると、「何言っているんです!ここだから良かったものの、外で警官に捕まったら銃刀法違反で逮捕されるかもしれないんですよ!」と怒られた。「我々では判断に余るので、千葉県警に来てもらいます。それまであなたには別室で待ってもらいますが、よろしいですね。」/「はい…。白石、悪いけどすぐ終わるから外で待ってて。」/「すぐには終わりません。」/「はい…。」すっかり塩らしくなった私でした。
別室。税関の職員が私の鎌に群がっている。
「これ黄銅じゃないか?」/「どれ磁石は…、おっ、着くねぇ。困ったな。」「刃渡り50cm以上あるしねぇ。」/「オーストラリア…? あぁ、オーストリア製か。」/「いちおう、出刃だよな、これ。」/「はじめてみるよ、こんなもの。」/「初めてですねぇ。」と、品評会が繰り広げられる。
「岩崎さん、これは何ですか?」/「鎌です。多分。」/「多分?」/「向こうも英語がわからなかったし、私もトルコ語がわかりませんでしたから…。」/「何に使うの?」/「はぁ、飾りにでもと…。」/「そうか、そうだよな。これが農作業に使うとか言うなら、話は別だったんだが…。」そうだったのか!しまった。でもこんな物騒なもので草むしりする気は毛頭無い。
さて、20分後。千葉県警の人が来る。「ははぁ、これですか。これは刃物とは言えませんから、もって帰ってもらって大丈夫ですよ。」この判断、わずか2秒。
調査のため包んであったビニールは寸断されたが、税関の職員は「すいませんでしたねぇ~」とか言いながら、このビニールごみで再び包もうとしている。ちょっとした意趣返しで、彼をビニールと格闘させたままにしておいたのでした。

Dessin d'Istanbul
イスタンブルのみに関して言えば、天下一の港町とて坂が多く、ローマと同じく「7つの丘の町 Yedi Tepe Sehir」の美称があります。建物は石造が多く、日本の日銀みたいな建物がたくさんあります。屋根はみんな赤いスレートを使っています。道路は石畳です。「魔女の宅急便」に出てきた町をもう少し汚くした感じでしょうか?
空気は石炭のおかげで少し酸っぱいです。関東地方の冬と同じくらい乾燥していて、日差しは日本の夏よりきついので、肌はあれがちです。ボスポラス海峡は本当に狭く、また黒海からマルマラ海へ流れが速いのでほんとに川のようです。波は低く、平らな石を水面に投げて跳ねさせることができます。
海峡沿いには釣り人があふれています。水の色はふだんは濃い青だけど、晴れた昼間は緑色に見えます。
町の人は、ベンツやアウディを乗り回すような大金持ちと靴磨きなどの貧乏人にわかれ、中間層はいません。貧乏人は東アナトリアからきた人々で、肌が浅黒く、人目でわかります。市民はイタリア人やスペイン人と同じで、まったくの白人です。服のセンスは色の浅いのが好きなようですが、彼らが着るとどんな服でもよく見えるでしょう。
車はイタリアのフィアットが一番多く、フランスのルノー、トヨタ、韓国のヒュンダイが続きます。
町は何時も渋滞して、人もあふれかえっています。
市街地と新興住宅地の間には恐ろしいスラムが広がっています。崩れかかった建物にすんでいて、ごみがあふれ、臭いです。子供たちは破れた服を着て、サッカーしてます。
新興住宅地は日本のマンションと同じです。
街中のいたるところに遺跡があり、ありふれていて、ペイントスプレーでいたずら書きされています。「Seni Seviyorum.(=I love You.)」など、内容はかわいいものです。
無数のモスクがあり、ミナレット(尖塔)が聳え立ち、さながら煙突のようです。町のいたるところに屋台があり、地下道も屋台で埋められています。コンビにはありません。
車が優先で、ほんとに引きかねない勢いで走ってます。一方、市民は横断歩道も信号も守る気が無いみたいです。車は右側通行ですが、古い街なので片側斜線が多いです。いわゆる十字路は無く、ロータリーです。
街中のいたるところで革命家アタチュルクの肖像とトルコ国旗を目にすることができます。ことに去年が建国75周年でしたから、そのポスターがあちこちにあります。
普通の食堂にはコーランの一節を書いた額があり、お酒は出ません。お酒を飲むには飲み屋に行く必要があるのです。
男のほとんどが煙草を吸います。が、町にはごみ箱も灰皿も無く、みんな平気でポイ捨てします。
What is the Nyonya dish
マレー語では男をババ、女をニョニャというらしく、マレーの家庭料理をニョニャというそうです。タイ料理のようですが、あのいやな辛さは無く、全体的にうす味です。僕は好きでした。街中の屋台には箸は無いので、右手で食べるよりほかありません。

メールの中身からの覚書
昨日、日本時間1999年9月17日11時半ころ、ようやく我が家の門をくぐることがで きました。 僕のこととて、波乱万丈な冒険譚をいくつかこなしてきたわけですが、逐一話す と限がないので、それは今度あったときに改めて、ということで、さしあたって 聞きたい話があれば、下記のサブジェクトから選択してください。 第一話、ほんとは降りてはいけないトランジット地、ドバイで気づかずに降り、 無事ターバン・セットを買ってきたこと。(UAE時間9月4日3:00ころ) 第二話、家族にトルコ行きを反対されていたので、ギリシアに行くと偽っていた のに、アテネで大地震が起こってしまったこと。(トルコ時間9月6日) 第三話、イスタンブル・タクスィム地区でホモに誘惑されたこと。(トルコ時間 9月12日20:00ころ) 第四話、トルコ式公共浴場ハンマームに行って、ごついおじさんにマッサージさ れながら、不覚にもあまりの気持ちよさに声を上げたこと。(トルコ時間9月13日 19:00ころ) 第五話、イスタンブル・イスティクラル通りで林佳世子先生にばったり出会って しまったこと。(トルコ時間9月13日20:30ころ) 第六話、イスタンブルの小汚い飲み屋に入って、トルコのおじさんたちにラクと いう強い酒を散々振舞われ、ほうほうの態で帰ってきたこと。(トルコ時間9月 14日20:00ころ) 第七話、マラッカで当地のニョニャ料理を右手で食べたこと。(マレーシア時間 9月16日13:00ころ) 第八話、成田で銃刀法違反に引っかかりそうになったこと。(日本時間9月17日 8:00ころ) 第九話、その他のこと1。トルコの食事、飲み物、タバコ。物価など。 第十話、その他のこと2。トルコの人々、情景。 ところで、話よりも興味をもたれているかもしれないお土産に関しては、コンヤ で少年が「100枚1000円」と言って売っていた(数えさせてみたら76枚しかなかっ たが、そこまで日本語で数え上げたので買ってあげた)、直径 10cmほどの金属の 飾り皿をもれなく差し上げます。 それでは。 笠原孝昭さまへ: 実は家族および親戚一同に、地震のためトルコ行きを反対されていたので、ギリ シアに行ったと偽っています。いつかは話しますが、今のところ、私がトルコに 行ったことは他言しないでください。 近いうちにあなたのお母さんと父方のおばあさんにスカーフが、そして皆さんに ラクという強い酒が届けられるはずです。 トルコの女性ヴォーカルのCDを4枚買ってきました。聞きたければテープかMDにダ ビングしてあげます。