al-Kuds / Jerusalem

History: S. D. Goitein; Monument: O. Garbar


A. 歴史

13. 最初のオスマン時代(922-1247年/1516-1831年)

セリム1世の1516-17年の対マムルーク朝遠征中、トルコ人がイェルサレムに入った正確な日付は知られていない。彼の後継者「立法者 Kānūnī 」スルタン・スレイマンはこの街に不朽の足跡を残した。944/1537-948/1541年に建てられた城壁には、11の装飾的な碑文が示されている。「岩のドーム」を修飾し、4つの美しい泉亭とサビール sabīl を都市に造営し、近郊に「スルタンの貯水池」を造った。これはツィオン山のふもとにある。多くのワクフ waqf が彼と妻のヒュッレム Khurrem によって寄進された。救貧給食所 'imāret は貧民と学生を養うために彼女によって与えられた。もちろんそれはもはや機能していないが、その大釜、受領者のリストやほかの印象的な遺物は今も聖地博物館 Haram Museum で見ることができる。

オスマンの公文書は初期の頃から正確な人口統計学と地誌を確かな広がりをもって我々に提供してくれる。イェルサレムに関する経済的なデータもそうである。バーナード・ルイス Bernard Lewis"Studies in the Ottoman Archives" ('Bulletin of the School of Oriental and African Studies' xvi/3 (1954), p.476, 及び 'Yerushalayim' ii/5 (Jerusalem 1955), pp.117-27 )で関連資料を分析している(Ibid., p.117, n.I, この主題に関する彼の別の出版物として、Bernard Lewis, Notes and documents from the Turkish archives, Jerusalem 1952.を見よ)。スレイマンの治世下の人口移動は納税者リストで122頁に示されている(Hは家長の数、Bは独身男性、Eは納税を免れた者、すなわち高位の聖職者や狂人である):

   932/1525-6   940-5/1533-9   961/1553-4
家長独身免税 家長独身免税 家長独身免税
イスラム教徒 61621 1,1687534 1,98714116
キリスト教徒 119-- 1362642 413253
ユダヤ教徒 199-- 22419- 324131

合計 93421 1,52812076 2,72417920

このように、オスマン時代のはじめのイェルサレムは約4,000の人口であったのが、スレイマンの治世中に3倍になる。(ルイスは後のリストは最初のよりも完全であるためかもしれないと指摘している)。ゆっくりとしたユダヤ教徒人口の増加は1530年代の終わりにはキリスト教徒より多くなるが、それは実際にはイェルサレムでなくサファド Safad に帰するべきものである。だが16世紀の中頃にはユダヤ教徒の主要な中心地になっていた。イェルサレムで徴収される最重要の歳入は長らく、聖墳墓の訪問者から取り立てる通行税であったが、それもこの時代に3倍になった(1525年の40,000アクチェから1553年の120,000アクチェへ)。その通行税はスルタンによってアクサー・モスク Aksā mosque のコーラン読誦者に与えられた。次に大きな細目はキリスト教徒・ユダヤ教徒からの人頭税であった(1人当たり金貨1枚[=60アクチェ]、合計で聖墳墓からの収入のおよそ半分になる)。経済活動に起因するすべての税、すなわち免状 ihtisāb、売上げ税、エジプトに輸出する石鹸にかかる関税は、がもたらした年間総額はずっと少ない。

スレイマンの壁は、彼の寛大さを示す最後の建造物であるが、オスマン政府が喜んでやったというより、官僚や軍隊ではイェルサレムの安全を保障できなかったことも示している。トルコ人の時代のすべてを通じて、19世紀の後半まで、イェルサレムの発展はこの安全の欠如によって阻害された。ラムラ Ramla~イェルサレム間の旅行者および海外からの旅行者の積み荷の安全は、すでにスレイマンの時代、アブー・ゴーシュ Abu Ghosh 家に委任されていた。この一族はカリヤト・アル・アナブ Karyat al-'Anab と改名されたイェルサレムの西にある美しい村の地方氏族である。ベドウィンがムスリム住民を殺し、コーランの写しを燃やし、そしてイェルサレムに至る彼らの道を通るムスリム巡礼団に税を課したという苦情が、すでに991/1583年に公的に記録されている(U. Heyd, Ottoman documents on Palestine 1552-1615, Oxford 1960, no.43)。1023/1614年の勅令はイェルサレム県の封土保持者を県の外への軍役から免除したが、これはそ こが「アラビア 'Arabistan の国境、反逆ベドウィンが平和を乱す地」だったからである(Heyd, Ibid., no.28)。18世紀の終わりまで、イェルサレム知事はキリスト教徒巡礼団に守りを固めて随行したが、後にベドウィンに貢ぎ物を支払うようになったと、ジョヴァンニ・マリティ Giovanni Mariti は報告している(Giovanni Mariti, Voyage, Neuwied 1791, ii, pp.301-3 )。他方、別の旅行者 W. G. ブローヌ Browne は1797年について、エルサレムの周囲すべてがベドウィンに支配されていると書いている(B. G. Browne, Travels in Africa, etc., London 1806)。(Amnon Cohen, Palestine in the 18th century, Jerusalem 1973.を見よ。)

この不幸の元はイェルサレムがイスタンブルによって十分に管理されていないという事実である。たとえとても慎み深い人間でも、その収入源をダマスカス総督、時にはシドン総督、18世紀の初めにはエジプト総督に与えてしまうからだ。総督は市長 mutasallim として街[の権益]を代表しているが、彼が現れるのは年に1度、軍隊の派遣や徴税に伴うときである('Ārif al-'Ārif, Mufassal, pp.309-10, 遅くとも1808年に著された)。18世紀、経済活動からの歳入はだんだん縮小した(あるリストは免状からの収入についてたった500クルシュ kūrush と述べており、これはシドンやコーヘンの20分の1である、Ibid. )。歳入は主にキリスト教徒・ユダヤ教徒への税と関税からなっていた。セリム3世の勅令(1205/ 1791年)には、イェルサレムに入るユダヤ教徒巡礼者に通常3~4クルシュ課されている関税を、合法的な1.5クルシュに下げることと、街を去ってからいかなる支払いからも免除されること、とあるが、これは勝手な搾取が一般的になっていたことを示している(M. Ma'oz, Palestines and collections in Israel, Jerusalem 1970, 38)

オスマン朝下におけるイェルサレムの社会経済誌に関する重要な資料は街のシャリーア法廷文書 sidjill of mahkama shar'iyya である。アーリフ・アル・アーリフは実例の数々を提供してくれる('Ārif al-'Ārif, Mufassal, 241 ff. )。970/1563年の「2人の市場監督官 muhtasib の代表たる」法官 kādī による物価の詳細なリスト、同年のキリスト教徒獣医・外科医の財産目録、そして3世紀間に渡る地価、物件価格、賃貸料、俸給、マフル mahr 。ほかの問題として、1117/1705年の「預言者の後裔の長 nakīb al-ashrāf 」の反乱と彼の邸宅の破壊に関する3通の書簡、あるいはユダヤ教徒コミュニティーの活動についての記述なども含まれている。あらゆる史料の組織的な研究だけが歴史的なさまざまな結果を提供するだろう。

イェルサレム知事は軍人であった('Ārif al-'Ārif, Mufassal, pp.317-28.にある 1517-1917年のオスマン総督たちの試験的リスト)。知事はその県の封土の保持者であるが、ふつう街の守備兵はその地方では徴収されない。法官はイスタンブルから派遣され、常にハナフィー Hanafī 学派に属する。この街にルーツのない外人支配層およびそれにコネのあるものたちの優勢は、短い期間であったが、当然健全な発展を妨げた。しかしそれでもいいこともあった。数人のトルコ人が永久的にイェルサレムに駐屯するようになってから、その地のアラブ人の気質は保たれ、地方自治的な発展の芽生えとなった。人口増加、時には暴動による減少は、しばしば特に抑圧的な(あるいは弱い)総督を街から追い出した。よりしばしば起こる要因に、宗教事務、徴税請負、ワクフ管理といった実入りのよい権益の保持によって、あるいは村々の守護者として活躍することで(その力量で彼らも多くが大土地所有者になるのに成功し)、強力な一族の増加がある。よく知られた家には、ハティーブ Khatīb 、ハーリディー Khālidī(前述の第12項マムルーク朝下のイェルサレムを見よ)、アラミー 'Alamī 、ダジャーニー Dadjānī 、フサイニー Husaynī 、ナシャーシービー Nashāshībī 、ヌサイバ Nusayba 、他がいたが、彼らはこの時代に台頭した。地方上層階級であるこれらの家族には、白い肌、青い目、丸い頭の人々が非常に顕著な割合で見出されたが、オスマン支配の長い世紀の間、この街を通る多くの非アラブ要素とよく混ざってこうなったのである。

あるパンフレットにアブルファス・アル・ダジャーニー Abu 'l-Fath al-Dadjānī (1660年死去)の「ダジャワーヒル・アルカラーイド・フィー・ファドゥル・アルマサージド Djawāhir al-kalā'id fī fadl al-masādjid 」という題のイェルサレムの住民の生活の興味深い絵が残されている。それには民衆の祭りのシーンとして haram al-sharif、そしてほかの世俗的な活動が描かれている(M. Perlmann, A seventeenth century exhortation concering al-Aqsā in Israel Oriental Studies, iii [1973]. pp.261-292. 「ダジャワーヒル Djawāhir 」のアラビア語原典を複製したもの)。

19世紀はイェルサレムにとって不吉に幕開いた。1808年に火事が聖墳墓の西側のほとんどを壊した。スルタン・マフムト2世はギリシア人に建物を修復する権利を認めたが、ほかの軍団に砦に駐屯されたことに怒っていたイェニチェリは、修復を妨げるようムスリム住民を煽動した。広範な反乱が続いた。ついにダマスカス総督はイェルサレム市長[知事]を包囲して警告する一方、マグリブ騎兵の別動隊を内密に派遣した。その別動隊が街への侵入に成功し、反乱軍を打負かした。指導者の38人が縛り首にされた('Ārif al-'Ārif, Mufassal, pp.356-8., Mihā'īl Burayk al-Dimashkī の引用文)。1821年のギリシアの反乱のとき、イェルサレムのキリスト教徒は彼らと共謀したと非難され、未曾有の危機にあった。だがダマスカス総督の素早い反応と、イェルサレムの法官の断固とした覚悟のおかげで、キリスト教徒に危害が及ぶことはなかった。もう一人のダマスカス総督は大規模な反乱の原因となった。市民とフェッラーヒーム fellāhīm が彼に課された重税の支払いを拒絶したのだ。1825年に彼は大軍を率いてイェルサレムに至り、反逆した街から100,000クルシュの罰金を徴収した。だが彼らはなおも引き返しそうになかった。そして住民が再び立ち上がったとき、司令官はベツレヘムへの懲罰遠征隊におり、イェルサレムに再び入ることはできなかった。何人かの兵士が砦に残っていたが、早々に打ち負かされ、市街とその郊外はみな反乱した。スルタンが特別の遠征隊を派遣し、街を囲んだときでさえ、住民は動揺しなかった。しかし、オリーブ山に展開した大砲から砲弾が街に落とされ、いくつかの豪邸に火が着いたときに、ようやく抵抗は終わったNeophytos of Cyprus, Annals of Palestine, 1821-1841, ed. S. N. Spyridon, Jerusalem 1938, 3-4 )。このとき反乱は流血なく終わった。だがそれはギリシアに輝いた暴政に対する抵抗心がこの聖なる街からも完全には消えていないことを示したのであった。


14. 1831-1917年、急進的な変化の時代

この短い時代の前半までに、イェルサレムはキリスト教徒とユダヤ教徒がムスリム住民の間で優位に立ち、はっきりした経過をなした。キリスト教徒の空前の拡大は、ヨーロッパにおける発展に対し、オスマン・トルコの、その対抗する国々や教会への従属化によって引き起こされた。一方、多くのキリスト教国に喚起された聖地への政治的、宗教的、人道主義的、科学的関心も原因となった。ユダヤ教徒人口は急増した。1870年代の終わりまでに彼らは人口において多数派となるに至ったが、それは全体的な改善の当然の帰結であった。彼らは敬虔で非常に貧しい人々の近代的なコミュニティーを形成したのだ。

この発達はムハンマド・アリー Muhammad 'Alī の継子であるイブラヒム・パシャ Ibrāhīm Pasha による1831年のパレスティナ征服が引き金となっていた。彼の行動で、イェルサレムにおいて特に重要なものに、強力な政府を打ち立てるべく尽力したことと、ヨーロッパ列強との友好を勝ち取ったことがある。彼が始めたことを挙げるなら、彼は市民を武装解除し、都市貴族と地方軍閥の専制を打破し、人員補充で強化した常備軍を招集し、地域住民を官職や諮問機関に登用することで彼らの協力を得た。イェルサレムのキリスト教徒(とユダヤ教徒)は彼らが地方豪族に支払わねばならない多くの特別軍税から解放され、宗教的建造物を修復し建設することを許され、政府に仕官することも許された。これらすべては多くの既得権を損ない、ムスリム住民全体の激しい怒りを買った。フェッラーヒーム fellāhīm は、都市貴族に支えられて、武装蜂起し、エジプト人駐屯兵を追放した(1834-5年)。だがイブラヒム・パシャは反乱を鎮圧し、精力的に自らの目的を続行した。1838年のイェルサレムのイギリス領事館の設立はこの時代を象徴している。

イブラヒム・パシャに、その征服をあきらめるよう強要する干渉がヨーロッパからなされたとき、スルタンは臣民すべてに平等を約束していた(1839年)が、時計の針を戻すことはできなかった。西洋の浸透の趨勢はクリミア戦争でさらに勢い付いた。この戦争でトルコは英仏によってロシアの侵略から守られていたのだ。フランス、オーストリア、プロイセン、ロシア、サルディニア、スペイン、合衆国がイェルサレムに領事館を開いた。キリスト教列強の旗がいまや日曜・祝日には聖なる街に掲げられるようになり、彼らの主君の誕生日には21門の大砲による一斉祝砲が敬意を表した(敬意は、形式的にムスリムの祝日と預言者の誕生日のためにも取っておかれた)。そして教会の鐘が鳴り始めた。最初は、イェルサレムのムスリムは力づくでこれらの刷新をやめさせようとした。しかしそのような試みはすぐに抑圧され、地域住民の外国の活動による圧倒的な物質的・精神的優位は明らかとなった。自然、地元のキリスト教徒は最初に利益を得た。この時代にいくつかのキリスト教徒一族が豊かになり影響力をもつようになった。

カトリックのイェルサレム大司教座は、十字軍の結果、1291年に廃止されて(ローマに住むただ名ばかりの司教が代理を務めていた)が、1847年に復活し、街の強力な要素となった。ギリシア正教の大司教はイスタンブルからイェルサレムに移ってきた。英国国教会の司教管区が1841年に設立された(数十年間プロイセンの協力の下に機能した)。同年、イェルサレムのユダヤ人コミュニティーは勅令 firmān によって大ラビ hākkām bashı を受け入れた。大ラビはイスタンブルから派遣され中央政府と通じていた。サラーヒーヤ学院 Salāhiyya madrasa(上述の第10項を見よ)のアブド・アル・メジード 'Abd al-Medjīd によって、古い聖アンナ女子修道院が、(その往時の用途への修復の結果として) 1856 年にフランス皇帝ナポレオン3世に寄進され、そしてムーリスターン Mūristān 地区(上述の第10項を見よ)の一部がプロイセンに贈呈された。プロイセンはそれプロテスタント教会の建設に使ったが、それは新たらしい状況を明らかに例証している。

遅まきながら、中央政府はこの扱いにくい街と反政府的な郊外にに自らの権威を主張することができた。19世紀に半ばには、ベドウィンはまだイェルサレムのまさにその壁の下にいる、そして街の中にいる旅行者を襲撃し、キリスト教徒とユダヤ教徒はいまだ豪族や官僚による横暴な強奪にさらされていた。それが領事館による調停と改善された通信機関によって救われた。1865年までにイェルサレムは電信によって外の世界と結ばれ、1868年にイェルサレム~ヤッフォ Jaffa 間に車輪付車両の使用可能な道路が完成した。鉄道が1892年にそれに続き、それを敷設したフランスの会社が、鉄道に隣接した村々の長と協定を結んで、鉄道と(イェルサレム駅を含む)駅舎の安全を保障した。郵便事業はオーストリア、フランス、その他外国の機関や人が準備した。イェルサレム地区の官僚制に大きな変化が起こった('Abd al-'Azīz 'Iwād, Mutasarrifiyyat al-Kuds awākhir al-'ahd al-'Uthmānī, in Palestine Affairs, iv [Beirut 1971], pp.126-41. に詳述されている)。1872年1月2日付のドイツ人領事の書簡の中で、イェルサレム知事は自らを「パレスティナ総督 gouverneur de la Palestine 」と称している(M.Ma'oz, Palestine during the Ottoman period, 25)が、行政上、イェルサレムの単位が属州の南半分以上で構成されたことはない。1874年(あるいはそれよりちょっと前)以後、イェルサレムはイスタンブルに直接責任を負う独立した「市国 mutasarrıflık 」となり、かなり細分化された行政組織の長になった。それは一般行政、財政、土地登記 tābū 、ワクフ、治安、農業、商業、教育、渉外の各局を有していたが、渉外局は街の多くの領事館や外国人のために特に必要とされたものである。両地区と街の諮問機関はキリスト教徒とユダヤ教徒の利益を代表していた。彼らの数を保証しきれるほど多くはなかったけれど。

イェルサレム地域は、その外観も大きさも人口構成もこの時代の間に全体的に変わった。大聖堂と教会、いくつかの新しいモスク、シナゴーグとイェシヴァス(ラビになる準備をする大学)、大司教たちの宮殿、女子修道院、巡礼宿泊所、学校(最初の女学校は、ユダヤ教徒が1864年に、アラブ人とドイツ人が1868年に設立した)、科学協会、病院、診療所、孤児院ほか慈善施設が旧市街の内外に建設された(B項を見よ)。1860年以後、旧市街の住民は外に新しい地区をつくり始めた。ユダヤ教徒は、特にぎっしり詰まっていたので、その先陣をきった。それから20年間、城門は夜には相変わらず閉じられたので、郊外の安全の助けにはならなかった。ムスリムは街の南側のアブー・トール Abū Tōr 区と特に北側のワーディー・ジョーズ Wādī Djōz 区およびその西にある丘に定住するのを好んだ。ギリシア正教徒は主に、ギリシア正教大司教の夏の邸宅(カタモン Katamon 地区)である聖シモン付近に集住し、ユダヤ教徒は西側の郊外におよそ60の地区をつくった。南西にあるテンプル騎士団の「ドイツ人居留地」と、北の「アメリカ人居留地」は、主としてスウェーデン人が住み、特に広々としていることで知られる。セルマ・ラゲルロフ Selma Lagerlof の有名な小説『イェルサレム Jerusalem 』(1901-2年)は、スウェーデン巡礼者の宗教的・個人的な苦境と比較して、アメリカ人居留地の近くのシェイフ・ジャラーフ Shaykh Djarrāh ・モスクのイマームに霊感を受けた、スーフィー教団を率いるイスラム神秘主義の地域代表者を描写している。

1908年の青年トルコ革命事件、それに続く期待はずれな第一次世界大戦、そしてそれらに伴う軍事独裁者の圧政、飢饉、伝染病、続いて起こる人口減少といったひどい苦しみ―これらすべてがこの地域の全体的な歴史に含まれている。しばしば再版される写真には、1917年12月2日付のイギリス将軍アレンビー Allenby のがその足で聖都入城するさまが写っていて、キリスト教徒の謙遜ぶりを示している。


B. 建築物

4. オスマン建築

オスマン支配の最初の数年間は、以前からの業務が続けられ、リサーシヤ学院 Risāsiyya madrasa などではまだマムルークの理論と実践にしたがっていた(947/1540年)。泉亭の多くは後々まで残っている。しかしオスマン朝のその最盛期における主な努力はある皇帝によってなされた。それゆえ2つの壮麗な建築物はいまも街のもっとも印象的な遺跡群に紛れることなくそこにある。1つは「岩のドーム」のタイルの壁であり、もう1つはイェルサレムの城門である。2つはともに本質的にスレイマン壮麗王に帰する10/16世紀の建築物であり、機能的にも精神的にもその原形を捜し求めることのできない注目すべき重要なものである。それらの有効性にもかかわらず、実に人の心を打つが、これらの主要な点はこれらがイェルサレムの不朽の歴史における2つの首尾一貫したテーマをとらえていることにある。新たなムスリムの聖地の創造と、聖都と世界の残りのものとの物質的のみならず象徴的な分離である。

この世紀の後、オスマンの主な活動はハラムの主な聖域の恒常的な修復であった。これら修復の質はオスマンの富の減少、イェルサレムの人口及び重要性の減少とともに次第に落ち込んでいき、19世紀後半までに新しい、ヨーロッパ中心の意義と建築術がこの街に持ちこまれた。

最近の数年間、イスラム時代のイェルサレムに2種類の異なる調査が実行されている。1つめはハラムの南と南西の発掘であり、継続しており、部分的な公表もなされている。これまでウマイヤ朝で使用されおそらく再建された、ヘロデ王時代の聖域へ上がる階段が、十分に実証された(N. Avigad, Archaeological discoveries in the Jewish quater of Jerusalem, Second Temple period, Jerusalem 1976.、Mayer Ben-Dov, Hashiridim min hatikufa hamuslamit hakaduma be'azor har habayt, in Qadmoniot, Jerusalem 1972. を見よ)。

第2の調査団はA.ウォールズ Walls、M.ブルゴワーヌ Burgoyne によるマムルークの遺跡の研究で、1971 年に、英国イェルサレム考古学会 the British School of Arcaeology in Jerusalem 機関紙『レヴァント Levant 』に3巻にわたって公表し、ブルゴワーヌの照合表がそれに続いたThe architecture of Islamic Jerusalem, British School of Archaeology in Jerusalem 1976.)。ハラムの西側の建築物の緻密な平面図と立面図の提供に加え、これらの研究は同時に幅広い問題を扱っており、ウォールズの特に独特な記述には、街の西部、キリスト教徒の初期の部分にアフダル・アリー Afdar 'Alī のミナレット建設(1465-6年)とサラーヒヤ Salāhiyya のミナレット建設(1417年)がなされたが、それはムスリム建築の雛形に加え、象徴的に聖墳墓のドームを模して組み立てられたことが提唱されているLevant, vii. 1976. pp.159-61)