daftardār

Bernard Lewis


トルコ語ではデフテルダール defterdār と言い、財務長官を指すオスマン朝の術語で、東方イスラーム世界のムスタウフィー Mustawfī に当たる。カルカシャンディー Kalkashandī(Subh, , 485, 494, 525, 526)によれば、サーヒブ・アル ダフタル Sāhib al-Daftar という称号はすでにファーティマ朝の官僚制度の内に、会計と会計監査を扱うダフタル・アルマジュリス Daftar al-Madjlis 局として現れている。ダフタルフヮーン Daftarkhwān(帳簿 Daftar を読む人)の称号はサラディンの時代に現れ(B. Lewis, Three Biographies from Kamāl ad-Dīn, in Fuad Köprülü Armağanı, Istanbul 1953, 343)、西方イスラム世界に再登場した(Makkarī, Analectes, i, 660)。ダフタルダール Daftardār という称号はイル汗に起源があると思われる。イル汗は帳簿を作成し保管するためにダフタルダーリ・ディーワーニ・マーマリク daftardār-i dīāwān-i māmalik あるいはダフタルダーリ・マーマリク daftardār-i māmalik を任命した(Uzunçarşılı, Medhal, 229-30; Köprülü, Bizans 204-5; Hammer, Geshichte der Goldenen Horde, Pest 1840, 497-501)

9/15世紀のオスマン朝のカーヌーンナーメ kānūnnāme は、オスマン帝国にお ける財務長官の事務局の発展を示してくれる。メフメト2世のカーヌーンナーメには、財務長官はあいまいながら大宰相の管轄下にあって、スルタンの財政を司る官吏 wekīl であり、すでに官職上で高く位置づけられていたKānūnnāme-i Āl-I 'Othmān, Ta'rīkh-i 'Othmānī Endjümeni mejumū'ası suppl. Istanbul 1330, 10)。長官は大宰相の次に名を連ね、その権威は大宰相に比肩した。御前会議 Dīwān では長官は大宰相と2名の軍人法官 Kādī'asker に続く座を占め、彼の権限内での懸案の勅令 ferman を提出する権利を彼らと共有していた。長官はスルタンと個人的に接触する権利を有しており、スルタンは長官を迎えるために起き上がったものであったibid., 10-11, 16-17, 23-5 )。長官の責務には年間報告書あるいは年間収支の貸借対照表を提出することも含まれていたが、長官は名誉ある官服でそれに報われた。長官の給料は60万アクチェ相当の恩寵資産 khāss か国庫からの年間15~24万アクチェの俸給であった。加えて、長官は、耕しているにせよ委託 iltizām / emānet しているにせよ、恩寵資産の助成金のすべてから一定量 yük(10万アクチェ)につき1000アクチェの報酬を徴集することもできた(1000アクチェのうち22アクチェの報酬 Kesr-i mīzān が金で国庫に支払われた。帝国領内からの十分の一税で集められた生産物も同様に処理される)。引退すると長官は8万 アクチェの別荘を拝領したibid., 28-9 )。首席財務長官 bashdefterdār は財務諸局のヒエラルキーを統轄していた。財務局にはまず普通の財務局長 Māl defterdārı がいて、この下にその助手 Defterdār ketkhudāsı がおり、さらにその下にティマール帳簿係 Tīmār Defterdārı がいた。これらすべては確立された公認の昇進階段である。バヤズィト2世の御代から首席財務長官の大部分はルメリアに関わらされたため、ルメリア属州財務長官 Rumeli Defterdārı としても知られている。次席財務長官であるアナトリア属州財務長官 Anadolu Defterdārı はアナトリアの税収入の扱いを任されていた。10/16世紀初期に、遠いアジアの諸属州を管理するために、遠方の財務長官事務局がアレッポに設置された。その長官はデフテルダーリ・アラブ・ワ・アジャム Defterdār-i 'Arab wa 'Adjam と呼ばれた。この事務局は後にディヤルバクル、ダマスカス、エルズルム、アレッポ、トリポリ、そしてあちこちの分局に分割された。16世紀半ばにはイスタンブル分局が設置された。そして、この世紀の終わりにはドナウ諸属州のために別のものがイスタンブルに設立された。これは長続きしなかったが。3つの主な事務局は第一 shikk-i ewwel、第二 thānī ewwel、第三 thālith ewwel として知られてきた。これにはそれぞれルメリア、アナトリア、そして遠方諸属州が該当する。第四の事務局はセリム3世によって、新式の軍隊(ニザーミ・ジェディード nizām-i djedīd の項を見よ)の資金を扱うために設立されたが、これはこの新式の軍隊とともに廃止された。1253/1838年、財務局 defterdār は財務省 Māliyye と改名されたが、デフテルダール Defterdār という術語は属州の財務監督官に使われて残った。


Bibliography: Mehmed Zeki, Teskkilāt-i 'Atīkaad Defterdar, Türk Ta'rīkhi Endjümeni mejumū'ası, 15th year, 1926, 96-102, 234-244; Köprülüzade M. Fuat, Bizans Musseselerin Osmanlı Muesseselerine tesiri hakkında bazı Mülāhazalar, THITM, i, 1931, 201-5 (= M. Fuad Köprülü, Alcune Osservazioni intrno all'influenza delle Istituzioni bizantinesulle Istituzioni ottomane, Rome 1953, 44-8); Pakalm,under the word; Gibb-Bowen, index; Hammer-Purgstall, index; Islâm Ansiklopedisi under the word (by İ. H. Uzunçarşılı ) .