Ferhād Pasha [? - 1004/1595]

V. J. Parry


オスマンの大宰相。あるヴェネツィアの1585年の報告 relazione は、その時彼がだいたい50歳であると述べており、他方ヴェネツィアの1590-4年の諸報告 relazioni では、彼はだいたい65-70才の男として描写されている。フェルハト・パシャ Ferhād Pasha はアルバニア出身であった(いくつかのヴェネツィアの報告は、彼のことを "di nazion schiavone", "di nazion schiava" と言っている)。「立法者」スルタン・スレイマン Sultan Süleymān Kānūnī(974/1566年死去)の治世の終わり頃、フェルハト・パシャは内廷 enderūn-i humāyūn から出て、ミール・アホリ・ケビール Mīr Akhor-i Kebīr 、すなわち宮廷騎兵団団長となった(この任命は、986/1578年、時の大宰相メフメト・ソコルル Mehemmed Sokollu の甥であるブダ総督 the Beglerbeg of Budin ムスタファ・パシャ Mustafā Pasha の処刑命令とともにブダの彼の下に送られた。)そしてさらにイェニチェリ軍団長官 Yeñiçeri Agası 、すなわちイェニチェリ軍団の長 Agha となった(彼はこの職を980/1582年に失った)。990/1582年の終わりにフェルハト・パシャはルメリア総督となり、その後しばらくして高位の司令官、すなわち986/1578年に起こった対ペルシア戦争に従事するオスマン軍の総司令官に、宰相の地位とともに引き上げられた。彼は、991/1583-992/1584年の間に、グルジア Georgia のチフリス Tiflis にいるオスマン駐屯軍を新たな補給と増援で救援し、加えてエレヴァン Eriwān およびグルジアに至る多くの防衛拠点を要塞化した。東部戦線の最高指揮権は、1585年までに、高名なオスマン・パシャ 'Othmān Pasha に譲渡された。オスマン・パシャの、戦争初期におけるコーカサスでの輝かしい遠征からの軍人としての名声によるものであった。993年ズー・アルカーダ Dhu 'l-Ka'da 月/1585年10月のオスマン・パシャの死後、フェルハト・パシャは再度司令官に任命され、彼はその職を998/1590年のペルシアとの長い抗争の終結まで保持した。彼の軍人としての堅実な功績は、996/1588年にペルシア・アゼルバイジャン Persian Adharbaydjān のガンジャ Gandja 、カラバフ Karabāgh 地域を占領したとき、栄誉を与えられることとなった。999年シャッワール Shawwāl 月/1591年8月、フェルハト・パシャは大宰相となった。しかし1000年ジュマーダー・アルアーヒラ Djumādā II 月/1592年3~4月のイェニチェリの反乱は彼の失脚をもたらした。1001/1593-1015/1606年のオスマン帝国-オーストリア間の長い戦争の最初の数年間、大宰相コジャ・スィナン・パシャ Kodja Sinān Pasha がハンガリー戦線にあって不在のイスタンブルで、彼は第2宰相として代理職 kā'im-makām を務めた。その後間もなくして、1003/1595年にスルタン・メフメト3世 Sultan Mehemmed III が戴冠すると、フェルハト・パシャは再び大宰相となった(1000年ジュマーダー・アルアーヒラ月/1595年2月)。しかしなが彼が更新した職の保持は儚い運命にあった―1003年シャッワール月/1595年7月に彼が対ワラキア遠征の準備をしていたとき(ワラキアがオーストリア側に与したとき)、彼の仇敵であるコジャ・スィナンは陰謀で彼を失脚させた。そしてその後間もなくして、1004年サフェル Safer 月/1595年10月、彼はスルタンの命により処刑された。いくつかの史料はフェルハト・パシャを粗野で無知な男であり、その品行は傲慢で貪欲であると描写している(ラッツァロ・ソランツォ Lazzaro Soranzo の言葉では "detto Charailam, cioe, nero serpente" 〔= 黒ヘビ Kara Yılan 〕)。それでもなお、その経歴において、とりわけ対ペルシア戦争で、注目すべき功績がないわけではない。彼はその時代でもっとも有能な宰相の一人と見なされるべきいくつかの資格を有している。


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