Sinān Pasha, Khodja [? - 1004/1596]

F. Babinger - [G. Dávid]


ホジャ・スィナーン・パシャ(1004/1596年死去)、宰相にして政治家。

彼はアルバニアの属州 Lure に属す Topoyan 村で1520年頃生まれた。彼の父親はアリー 'Alī という名のムスリムであった。彼が最初に宮廷に現れるのは壮麗者スレイマンの味見役長 çashnegīr bashı としてである。物語調の史料は彼が後にマラティア Malatya、カスタムーニー Kastamūnī、ガザ Gazza、シリアのタラーブルス Tarābulus の各軍長官 mīr-i liwā [を経て]、エルズルム、アレッポの総督へと昇進したことを主張している(Hadīkat ül-wuzerā', 35)。公文書史料はやや違った職歴を提案している。少なくとも、後の大宰相と同一人物であるに違いない味見役長スィナーンの、993年6月17日/1556年4月28日のタラーブルルス県知事 sandjak への任命は文章で証明されうる(cf. Istanbul, Başbakanlık Osmanlı Arşivi, Mühimme defteri 2, p.68, no.618)。スィナーンは前述のタラーブルス県知事に967年3月4日/1559年12月4日に着任した(Mühimme defteri 3, p.234, no.666)。彼は1560年4月にはガザ県知事として述べられておりibid. 317, no.929)、「アヤース・パシャ Ayās Pasha の兄弟」たる彼は968年6月28日/1561年3月16日にマラティアに移された(Mühimme defteri 4, p.191, no.1948)。 数年後の1564-5年にはスィナーンはエルズルム総督であった(Mühimme defteri 6, p.9, and Mühimme defteri 5, p.144, no.325)。彼がアレッポで官職に就いたのも1565年10月であることが証明されている(BBOA, Kepeci 7502, p.115)。1567年の終わりには彼はエジプト総督となった。この機関にいる間の976年2月20日/1568年8月15日に宰相にして遠征軍総司令官 serdar に指名され、イェメンへの遠征を引き受けて、Imām Mutahar の反乱を鎮圧した。彼は領土の奪還に成功し、彼を称える者たちは彼に「イェメンの征服者」という形容辞を与えた。彼は1571年に hadjdj を引き受け、978年12月18日/1571年5月13日にエジプト総督に再任された(Mühimme defteri 12, no.542. Hulûsi Yavuz, Kâbe ve Harameyn i&#ccedil;in Yemende Osmanlı hâkimiyeti (1517-1571), Istanbul 1984, 117, n.92 に引用されている)。そして約2年間この地位にとどまった。彼は第6宰相としてイスタンブルに戻った。

1574年の春に彼はチュニスへ行軍するオスマン陸軍の再校指揮権を与えられた。ゴレッタ Goletta/Halk al-Wādī は長い包囲の末に強襲され、チュニスは再びオスマン帝国に統合された(したがって、スィナーン・パシャは「チュニスの征服者」という形容辞を使った)。この成功により、彼は第4宰相の地位という栄誉を授けられた。この地位には彼の古くからのライバルであるララ・ムスタファー・パシャ Lala Mustafā Pasha がいたが、彼は突然第3宰相となり、強化された。これは1577年に対ペルシア遠征軍総司令官職について二重の任命が下されるという先例のない事態を招いた。後に彼はこの地位を失ったが、彼のライバルが失敗すると、彼は単独で戦争の継続を命じられた。1580年の春に彼はオスマン軍をグルジアへ導き、988年6月18日/1580年7月31日にはララ・ムスタファー・パシャの後を継いで大宰相に任命された。ララ・ムスタファー・パシャはアフメト・パシャ Ahmed Pasha の死後3ヶ月間、代理宰相 wakīl-i saltanat であったのだった。しかしオスマン軍のグルジアの征服はペルシアとの不和を終わらせるに至らず、スィナーン・パシャは990年11月10日/1582年12月6日に解任され、ディメトカ Dimetoka へ、後にトラキアのマルカラ Malkara へ追放された。恥辱の4年間の後、ハレムでの影響力と適当な贈り物(主張するところによれば10万ドュカート)を通じて、彼は1586年12月にダマスカス総督に達した。この職を失った後、彼はウスキュダル Üsküdar に滞在していたが、997年5月16日/1589年4月2日に2度目の大宰相に任命された。この間、ペルシアとの講和条約が締結され、12年間の戦争状態は終わりを告げた。しかし、彼の新たなライバルであるフェルハート・パシャ Ferhād Pasha は彼の評判を落とすことも、彼をその地位から放逐することもできた。Sabandja 湖から運河を引いて黒海とニコメディア湾をつなぐという古くからの計画の実現のために使った多額の支出という口実のことである。地中海での大規模な遠征のために属州総督たちにガレー船の調達を命じるという計画の失敗も彼の失墜を支持するのに少なからず役割を演じたに違いない(cf. Pál Fodor, Between two land wars: Ottoman naval preparatios in 1590-1592, in Armağan. Festschrift für Andreas Tietze, ed. Ingeborg Baldauf and Suraiya Faroqhi, Prague 1994, 89-111)。しかし1年半後、イェニチェリの反乱は彼を再びマルカラへ送り返した。そして4月25日/1593年1月29日になると、彼は3度目の大宰相の地位を占めた。

この後、彼はすべての精力を西方、とくにハンガリーでの軍事的栄誉を勝ち取ることに傾けた。1593年の春の Sisak にあったボスニア総督ハサン・パシャ Hasan Pasha の敗北を受けて、彼は個人的に軍をハンガリー遠征に導いた。1593-1606年の「長期戦 the Long War」の最初の都市はオスマンがそこそこ重要な2つの砦、VeszprémPalota を奪い、いくつかのオスマンの要塞がハプスブルクのために失われるという結果となった。1594年にスィナーンの軍隊はジェール Györ を奪うという成功を得た。ジェールは TataPápa の近くにある重要な交易都市で、ウィーンの前面の戦略的な地帯に位置し、新しい属州の中心地となった。1595年2月16日のムラート3世の死後1ヶ月後、彼は再び職を追われマルカラに流刑されたが、わずか2~3ヶ月のことであった。1003年10月29日/1595年7月7日に彼はライバルにして相対的なフェルハート・パシャにとって代わり、直ちにワラキア遠征を開始した。彼のジュルジュ Giurgiu/Yergöğü での敗北とハンガリーのエステルゴムの喪失は1004年3月16日/1595年11月19日の彼の解任とマルカラへの追放をもたらした。しかし彼の後継者ララ・メフメト・パシャ Lala Mehmed Pasha が任命後3日で死んだとき、玉璽はスィナーン・パシャを再び5度目の大宰相に任じた。この地位にあって彼が死んだのはちょうどトランシルヴァニア攻撃計画を準備中のときのことで、1004年8月4日/1596年4月3日のことである。彼はミマール・ダーウード Mi'mār Dāwūd によって建てられたイスタンブルの Çarşıkapı 区にある彼の墓 türbe に埋められた。

スィナーン・パシャの信じがたい財産は、彼が緊急時に国家財政を司ることができたということとともに、彼の個人的資質に加え、なぜ彼が4度の恥辱の時代を生き残ることができたのかということを説明している。彼は帝国のあちこちにいくつかの敬虔な建造物を設立した。それらのいくつかは彼が解任されたときに国庫に没収されたが、他の多くは後代まで残り、更新された。宮廷の金角湾岸にあるきれいでぴったりと調和した亭 köshk は彼の名を持っており、1827年まで残っていた。

彼が大宰相であった間、スルタンたちの孤高化過程の結果として、支配者と彼の「絶対的な代理人」との書くことによるコミュニケーションは telkhīs 形式の全般的な練習となった。

彼の強力な個性は彼の同時代人、特に宮廷のボスニア派に属す人々を刺激した。年代記作家ムスタファ・アーリー Mustafā 'Ālī は彼に特別な憎悪を抱いていたが、それは部分的には宰相が文士連中に対する侮蔑を公言したためでもある。他方、低階層の人々にとって、彼はオスマン戦士、帝国の真の柱、異教徒の抑圧者を象徴していた。


Bibliography: Tahsin Öz, Topkapı Sarayı Müzerinde Yemen fatihi Sinan paşa arşivi, in Belleten, x/37 (1946), 171-93; Şerafeddin Turan, art. Sinan Paşa, in İslâm Ansiklopedisi, x-,670-5; Suraiya Faroqhi, Die Volagen (telhīs) des Großwezirs Sinān Paša an Sultan Murād III, Hamburg 1967; Hasan Kaleši, Veliki vezir Kodža Sinan-paša, njegove zadužbine i njegova vakufnama, in Najstarji vakufski dokumenti u Jugoslaviji na arapskom jeziku. Priština 1972, 257-308; Tülây Reyhanlı, Bursa Yenişehrinde Koca Sinan paşa camii ve imareti, in Eddebiyat Fakültesi Araştırma Dergisi. In Memoriam Prof. Albert Louis Gabriel, Ankara 1978, 373-95; K. Schwartz and H. Kurio, Die Stiftungen des osmanischen Großwesirs Koğa Sinān Pascha (gest. 1596) in Uzunğaova/Bulgarien, Berlin 1983; Sándor László Tóth, Szinán nagyvezér tervei 1593-94-ben, in Hadtörténelmi Közlemények, xxix (1982),159-74; Haase, Eine kleinere Waqf-Urkunde Koca Sinan Pascas für Malkara, Thrakien, in Osmanlı Araştırmaları, xi (1991), 129-57; Pál Fodor, Sultan, Imperial Council, Grand Vizir. Changes in the Ottoman ruling élite and the formation of the GrandVizieral Telhīs, in Acta Orientalia (Academiae Scientiarium Hungaricae)., xlvii (1994), 67-85.