話題の小箱
Copiala
 
属領地総督 Zeb
26th Oct 2002

ファージェンテス王(ターシュ王兼任):1555-1579(おそらくFurthestに権力集中)
アッピウス・ルクシウス(現総督):1586-(ホーレイのMirin's Crossに総督府を移転)
http://www.btinternet.com/~Nick_Brooke/moonson/appius-luxius.htm

おそらく権力の分散はターシュのあまりの強大化を恐れてのことだと思います。(女王国の首都はフィリチェット。)

(別に赤の皇帝がいつもグラマーにいなければならない必然性もないでしょうし。)

ちなみにターシュ王国はシェン・セレリス時代の権力拡張に、曙の時代のベレネス部族の勢力圏や第2期の龍殺しの王朝の後継者としての主張をセアード地方征服のプロパガンダとして用いたようです。

 
Cuisines Peloriana Efendi, Zeb, Negosuke
13th Nov 2002

[Efendi]
炒める、という料理方法は、北宋末南宋初、遼の侵入から逃れた華北の人々が華南に避難した際、彼らを養うのに従来の田畑では足りなくなって、大々的に開墾が行われ、森林が減少し(浙江省では、森林面積がたったの2%)、薪が高価になったため、藁を使うようになったのだけれど、薪は低温で長く燃え続けるので、炙り、煮込み、蒸し、などに向いているのに対し、藁は高温ですぐに燃え尽きてしまうので、材料を高温でさっと火を通す、炒める、という料理方法が発展したとか。

では、地球のほかの薪の得にくい地域の料理はどうであったか? やっぱりアラブ料理はワクワク(サフランで黄色く色をつけたピラフ)とか、炒め物が主体のような気がする。ただ、アラブ料理は世界の三大料理の座をトルコ料理に譲っているように(普通、仏、土、中華。和食じゃないです)、あまりおいしくない(私見です)。それは、中華料理の歴史と違って、最初から薪になるような木がなかったからあまり料理法が発展しなかったためか?

さて、グローランサであまり薪が取れなさそうな地域といえば、ペローリアだと思う。私見だけど、河谷地帯以外のペローリアはペントより多少降雨があるものの、木が生えるほどの降雨はなく、なだらかな丘が草原で覆われた土地で、産業は牧畜と天水農業(大麦かライ麦)なんではなかろうか。で、建材としては上ペローリアから石を切り出して運んでくる。木造建築は高価。

以上のような(私の想像した)ペローリアでの料理は、薪で煮込んだり、炙ったりということができず、せいぜい畜糞を乾燥させたものか(薪より温度が低い)、藁を燃料にするしかない。ということで、ピラフかナン、タルタルステーキ、(あまり煮込んでない)スープ、といった感じか(もちろん、冷たいものはチーズとかいろいろある)。

と、貧しい食生活を送っていたペローリア人にも転機が訪れる。それは、シェン・セリレスによってシリーラに追われたこと。ここにはリーストをはじめ(今はないけど)、種々の森があり、薪に困らない。ということで、ペローリア料理も、従来のアラブ料理にさまざまな料理方法を施すことで多彩なメニューを揃えることができたトルコ料理のように、多様化したと思われる。例えば、ただのタルタルステーキが、炙りを加えることでケバブに、あるいはさらに煮込みを加えることでチャーシューに。にんじんやビートがそのまま入ってた塩のスープは、じっくり煮込んだシチューに。などなど。今日のペローリア料理は、ジェナーテラの三大料理に数えてよいほどになっているでしょう。

ちなみに、他のジェナーテラの三大料理は、やっぱりクラロレラとエスロリアでしょう。クラロレラは、偉大な中国がモデルだから、ということだけだけど、エスロリアは、狭い地域に多様な地形が入り組んでおり、海外との接触が多く、鏡の海の新鮮な食材が手に入る、ということで、素材だけでも資格あり、と思われる。
ドラゴン・パスやラリオスは、上述のペローリアのような変化をふんでいないので、ペローリアよりはメニューが少なそう。海産物もないし。カルマニア・東フロネラはもっと食材が少なそう。ロスカルムは、海も森もあるけど、性根が清貧だから、イギリス人同様、食事に文句を言ってはいけなそう。ロブスターとサーモンがおいしいかもしれない。でも庶民はニシンだろう。セシュネラは、ジルステラの伝統が残っていればいけるかもしれないけれど、神知者の滅亡がローマとパラレルなら、残ってなさそう。テシュノスは、きっとおいしいのだけれど、カレーの印象が強すぎるかもしれない。


[Zeb]
スラの副官で、カエサルやキケロの時代の食通、ルクルス氏の話。
http://www.ne.jp/asahi/gaisui/iori/rome/hero/r01.html
http://www.eurasia.co.jp/news/matsumoto/matsumoto_17/matsumoto_17.html
http://ao_zatsu2.tripod.co.jp/write/titi_18.htm

ルナーがローマだとすると、中央のアルゲンティウス皇帝(最近の「赤の皇帝」)の頽廃も相当のレベルに達していると思います。


[Negosuke]
料理については「チンギス・ハーン」岡田英弘著によると「各種の肉料理や、香辛料を使った味付けや、蒸留酒を飲む習慣などは、すべてモンゴル人が中国に持ち込んだものである。麺を食べることも、この時代に中国に普及した。」p278 のだそうです。
とすると、シェン・セレリス支配以降のペローリア料理、クラロレラ料理には香辛料の利いた肉料理がいろいろありそうで、おいしそうです^^

アルゲンティウス皇帝はローマ人や中国の歴代の皇帝のように遠方でしか取れない珍味を帝都に運ぶためだけにムーンボートを使ったりしそうですね。

 
グローランサの馬種 Zeb, (tr. Efendi)
22nd Nov 2002

(馬については、)『アナクシアル帝の名簿 Anaxial Roster』にいろいろと書かれていますし、グレッグ自身馬や牛には非常にこだわりがあるようで:

第一期
ダーロン種 Daron:西方のみ
ガラーナ種 Galana:ラリオス、マニリア、スロントス、ドラゴン・パス
ハイアロール種 Hyal:セアードのハイアロール信者 Hyalorings のみ
セーレド種 Sered:ペローリア、ペント、クラロレラ
ヴァンソ種 Vuanso:クラロレラのみ

第二期
ダーロン種:中海帝国版図内 Central Sea Empire Areas
ガラーナ種:ラリオス、マニリア、スロントス、ドラゴン・パス
セーレド種:ペローリア、ペント、クラロレラ、フロネラ
ヴァンソ種:クラロレラ、ペント、テシュノス、セシュネラ
フロナン種 Fronan:セシュネラのみ
ゼブラ Zebra:パヴィスのみ

第三期
ダーロン種:中海帝国版図内
ガラーナ種:ラリオス、マニリア、スロントス、ドラゴン・パス
セーレド種:ペローリア、ペント、クラロレラ、フロネラ
ヴァンソ種:クラロレラ、ペント、テシュノス、セシュネラ
フロナン種:セシュネラのみ
ゼブラ:パヴィスのみ
チューラン種 Churan:クラロレラのみ
スワダル種 Swadal:ロスカルムのみ
ジラーロ種 Jillaran:シリーラのみ
金瞳種 Goldeye/新ハイアロール種 New Hyal:ドラゴンパスのグレイズランド人のみ

馬の種類だけでもこれだけあるようです。詳しい資料をお望みなら、Anaxial Roster を読むかメールを下さい(笑)。

 
Negosuke, Zeb
13th-18th Nov 2002

[Negosuke]
Thunder Rebels p34以下の歓待の応答でも水、毛布、肉(食事かも)、塩の順に主人が客人に提供していきますので、サーターでは塩は貴重品のようですね。
塩の客人は族長の大卓に同席できるそうです。


[Zeb]
http://www.urutora.co.jp/new/month/10/solt/2.html
http://ww2.enjoy.ne.jp/~tteraoka/esse3.htm
日本ではあまり岩塩が取れないので塩田が主ですが、ヨーロッパでは岩塩の方が珍重されているようです。

Jeff Kyer氏によると、ドラゴンパスも同じようで、大廃都には岩塩坑が見られます。プラックスでは遊牧民は塩を巡って激しく争うそうです。

 
ルナー帝国の専売品目 Zeb
18th-22nd Nov 2002

コンヴェンションの本、Four Scrolls of Revelation には、Martin Laurie氏(ILHのデザイナー)のルナー帝国の経済についての最新の記事があります。なんでも金属や奴隷、ジンや鉄(グローランサの「鉄」は特別ですが)、ガラスは帝国の多くの地で皇帝の専売制とされているようです。

同じ記事にはクラロレラとルナーの間で不均衡貿易が行われていて、(Gerald Bosch氏の推測がそのまま使われているのかな?)大量にクラロレラに奢侈品とひきかえにルナーの金が流れ込んでいると書かれています。ルナーはそれを解消するためにハジアや麻薬を赤毛の商隊に運ばせて、クラロレラ当局と問題を起こしているとか。


正確には七品目、ガラス、金、銀、鉄、月の石、ジン、それから…奴隷。(帝国内の一部だけの話みたいですが)

 
愛の伝道セミナー Zeb
14th Dec 2002

「公式設定の」グローランサの場合、「騎士 Knight 」はフレストル卿が最初で、ブリソス人はカースト制度を持つ都市型の民族です(農民、兵士、魔道士、君主)。いわゆる土豪が主従関係でつくるいわゆる(中国古代史や中世西欧史の)「封建制」も元々のブリソス人の特質ではないと思いますが。

いわく、「騎士」とは四つのカーストを全て理解し体現するがゆえに、全てのカーストの制限を乗り越えて「心の喜び Joy of the Heart 」を実現できるのだとかなんとか。

Jamie氏が言うにはロスカルムにも「異端審問」があるけれど、タニソールの連中より巧妙で陰険なだけだとか言っています(笑)

「君はノースポイントの政策に反対しているそうだね? 愛の伝道セミナーに行きたまえ。24時間で確実に洗脳…いや、考えを変えること間違いなしだ。」

 
《十字軍》 9th Jan 2003

フレストル王子が異教のペンダルスPendali族〈獅子の民、大昔ジェナーテラを治めていたバスモル・スンチェン人の帝国)を破るために秘密の十字の地図をたどって世界の四方を彷徨い、「沈黙の宮廷」で手に入れたものが世々の正義Justice of the Agesという宝剣だった。

(沈黙の宮廷=冥界だとすると、剣と鍔のかたちなども考えると、フマクトの神話とかぶるところが多いことに注意。)

フレストルの死後も彼の「十字軍の儀式の巻物」はのこって、大いに後の歴史に影響を与えた。

(下、著作権が心配なので文字反転してあります。)

(RQルール:この術を投射された兵士はFPを二倍にし、 DEXもロールが必要な場合二倍として計算できる。また、魔術に抵抗する場合、POWを二倍として計算できる。そして鋭刃3、防護3、熱狂の効果を得る。ただし、この魔術の影響下の兵士は《熱狂》呪文の影響下にあるものとして考えること。<冷静な判断は不可>)

この術をフレストル後にはじめて使い、しかも濫用したのはアーカットで、そのために彼は破門されたほどである。
「正道への回復十字軍」は最初のうちうまく儀式が働いていたが、目的が宗教的なものから世俗的なものになるに従い、(暗黒帝国との戦いと、「神知者」の懐疑主義の導入?)儀式は効力を失っていった。トリミール王はこの術を用いようとしたが、完全な失敗に終わった。

「平和王」アンマックはこの儀式に厳格な審査・フレストル王子との対面と許可を要求するようにし、汎神論的な神知者の帝国が最盛の時代にはこの儀式は全く用いられなかった。

第三期になって、ベイリフェス王がアスゴランの戦いで十字軍の儀式を長い沈黙の後にはじめて用い、術は恐ろしい効果を発揮した。ロスカルムではこの儀式は用いられたことがない、しかし近年の「戦争王国」の脅威に対して「最終手段」を用いようとする意見も国内では次第に大きくなっている。

ということです。

この設定はGreg Staffordが書いたものなので、公式と言って良いかと思います。
グレッグ自身、十字軍にはこだわりがあるのかも?ハラルド・ハルドラダもエルサレムには行ったとか言いますし、日本人には計り知れないコンプレックスがあるのかも?

 
ウェネリアにおける交易路の変遷による影響 Efendi
21st Jan 2003

「大閉鎖」下でも沿岸航海は可能だったらしいですが、それってマラッカ海峡のような海域が延々と続いているわけで、入り江に潜む小舟を操る海賊の格好の狩場になっていたと思われます。
そこで、「大閉鎖」下ではやはり、ノチェット-ハンドラ間の交通は陸路に拠っていたのだと思います。で、ディタールスやソラントゥスなどの部族の人々はそれなりに潤って、安定していた。
それが、「大開放」になって、交通が海路に傾くと、彼らの生活は困窮し、また強力なリーダーを求めるようになる。聖王国としては、西部辺境の不穏な動きに対して心配りをし、大部族を分裂させたり、リーダーを懐柔したり、といったことをしてきたのだろうけど、ルナーの圧力で手が回らなくなってくる。
グレイマネによるエスロリア侵攻の年が1609年であることの背景には、以上のようなものがあったのではないだろうか。
また、彼がエスロリアを占領する1618年までには、対エスロリア遠征で数々の名声をたて、またルナーからの援助を分配していく中で、周辺諸部族の声望を得、この時点で彼の率いていた部族はディタールスにとどまらなかったのではなかろうか。

なんてことを思いつきました。

 
コラビブランに関する考察 Efendi
13th-17th Mar 2003

「この地図の製作者は16世紀初頭のジルステラ人、コラビブランである。」

この一行の文には、多くの謎が隠されている。

まず、16世紀初頭がいつ頃であるのか、については、通常最初の10年、多くとって15年というところである。

さて、この「16世紀初頭」とはどういう時代であるのか?
一に、920年にブリソスから発し、955年までに既知世界のすべてを覆った「大封鎖」から、1580年にノチェットより発し、1582年にロスカルムにまで至る「大開放」までの間である。そして、1471年にロスカルムから発し、1499年にフロネラ全土を覆った「大破門」から、1582年にノースポイントおよびソッグから発し、1621年までにチャーグなどを除くフロネラ全土にまで広まった「雪解け」までの間である。要するに、“閉ざされた時代”であった。
また、940年のジルステラの沈降、1049年のセシュネラの沈降、1050年のウェネリアおよびスロントスの沈降、1051年のスアム・チョウ内海の形成と、第二期の末期に起こった地理的変化はすでに起こっていた。
一方、内陸においては、1490年の踊る姉妹の戦いと1506年の恐怖の夜という、ホン・イールの活躍により、ルナー帝国の版図がいっそう広がった時代であり、1318年の聖王国建国、1414年のベイリフェスのセシュネラ王戴冠、1492年のサーター王国建国、1500年のジグラットのロスカルム王戴冠など、いわゆる“第三期的”政治秩序の確立した時代であった。秩序の確立により、内陸での移動は容易になったものと推察される。

第二期には、偉大な航海者でもあった神知者たちは高度な地図をもっていたであろうが、それは第三期には多くの地理的変化のために使用に耐えないものとなっていたはずであり、故にこそ、コラビブランはそれらの地理的変化を踏まえた地図を作成しようとしたのであろう。
彼が伊能忠敬のように、グローランサ中を踏破した、とは考えられない。一つには彼が“閉ざされた時代”の人であったからであり、今ひとつには彼が総合者であったからである。世界地図を描いたストラボンや大ペルシア帝国を詳述したヘロドトスらは世界中を歩き回ったのではなく、旅人から伝聞した知識で彼らの作品を描いている。であればこそ、かえって彼らは世界中を描けたともいえる。よしコラビブランが世界中を踏破したとするならば、彼の地図は、マルコ・ポーロの叙述のように、自らが踏破したラインに関しては詳しいが、そこから一歩外れた地域に関してはまったく分からない、といったものになっていたであろう。

この、彼が旅人たちからの情報を元に地図を作成したという仮定から、次に彼がどこに住んでいたのか、という点をも仮定しうる。彼は「ジルステラ人 Jrsuteli」ということになっているが、これはジルステラに住んでいたことを意味するのであろうか? 画家のエル・グレコのように出身地を表しているに過ぎないか、英語の Byzantine のように「ジルステラ人のような、策士めいた」といったあだ名であったのではないか。わたしは、ジルステラの崩壊時、有力な魔道師たちは《転送円》などで、多くの市民は死を覚悟して船でジルステラを逃れ、残された人々は孤立し破壊された環境の中で徐々に文明を退化させていったものと想像している。それはともかく、16世紀初頭のジルステラで彼が世界地図を描いたとするならば、それはまったく想像によるもので、ペントの丘陵がどうのと言う以前に、全体が信用できないものであるとするしかない。
彼が「ジルステラ系」ないし「ジルステラ人っぽい」大陸人であることを了解してもらえたなら、次へ進む。彼は旅人たちからの情報を元に地図を作成していたのだから、彼が住んでいたのは旅人たちが蝟集する場所であるに違いない。それは、今日、1621年の貿易中心地と変わることはないだろう。すなわち、東から、クラロレラ、テシュノス、ダラ・ハッパ、ケタエラ、西域である。そして、彼の地図が中央ジェナーテラを中心にしていることから、彼がダラ・ハッパかケタエラに住んでいたとも限定できる。ジェナーテラ大陸はすなわち定命界なのだから、ジェナーテラ大陸の中央部が地図の中心に来るのは当然ではないか、という反論があるに違いない。だが思うに、例えばマルキオン教徒にとってはブリソスやアルティネアが神話や歴史などで親しい土地であるのに対し、クラロレラはそうではない。彼らが使うには、大陸西岸が地図の中心にある方がよほど使用に便利であろう。これは竜帝の臣民たちにとっても同様であろう。このような偏りは、ユーラシア大陸が既知世界であった中世地球の地図においても見られる。キリスト教徒の描く地図はエルサレムが中心であるし、仏教徒の描く地図はチベットに比定される須弥山が中心なのである。
さらに、彼が「ジルステラ系」ないし「ジルステラ人っぽい」大陸人であったなら、彼はダラ・ハッパの住人ではないだろう。ダラ・ハッパにはジルステラ帝国の影響がほとんど及ばなかったので、彼が事実「ジルステラ系」であったとしても、単に「一神教徒」にしかならないはずである。今日のアメリカで、中国系は中国系と呼ばれるが、モンゴル系は他のアジア系移民とまとめられて「アジア系」と呼ばれるであろうことと同様である。
以下はわたしの想像だが、ポルトガル人がインドの王に居住地を求めた際、外国人は不浄であるとして、これに一島(ゴア)を与えて隔離したように、ケタエラでは一神教徒たちはコラリンソール湾に一島を与えられて集住しているのではないだろうか。

以上の推論から、彼が16世紀初頭にケタエラに住むジルステラ系ケタエラ人であるとして、彼の地図をもう一度眺めてみる。
ジェナーテラの海岸線については、彼の地図はほぼ正しいだろう。地図の注釈にある、ペントの丘陵の有無の問題に関しては、むしろこの一点に限らず、辺境になればなるほどこのようなあやふやな箇所が多かろうと考えられる。例えば、コロマンデル海岸の島嶼群はまったくあてにならないだろう。

ジルステラ、東方諸島、パマールテラ大陸の情報に関しては、三つの仮定ができる。
一、彼がケタエラに収められた第二期の地図を参照にして、彼の地図の空白を埋めた、ということ。この場合、ジェナーテラの海岸線の多くが変更されたように、パマールテラその他でもそうであったはずだが、この地図では変更されていない。
二、第二期の末期に世界各地からジェナーテラ大陸へ逃れ来たったジルステラ帝国の遺民たちの情報によっているか、《神託》からの情報によっていて、正確な地図を描いた、ということ。ただ、遺民たちの情報はそれほど正確ではないだろうし、「大閉鎖」中に変化が進行した可能性も捨てきれない。《神託》では、パマールテラにまで影響を及ぼす神がジェナーテラに現存するか、という問題が残る。もしかしたら神は、自らの威厳を損なうを恐れて適当なことを言ったかもしれないが、この時点で人間には確かめようがない。
三、元々、彼の地図はジェナーテラ大陸に限っていたか、一に挙げたようなものであったのを、17世紀の船乗りたちが暫時に情報を足し、今日の我々が見る地図になった、ということ。これを「コラビブランの地図」というのは、一に彼の古い地図の権威がなさしめることで、現在の我々の地図が「メルカトルの地図」というのと同じようなことである。
どの仮定もそれなりの説得力を持つが、ご都合主義で行くなら、「コラビブランの地図」を基にしてパマールテラその他の推察が進んでいる以上、三の説を採った方がいいだろう。


[Zeb]
Korabibulan

taught by David Dunham and Peter Metcalph.

 
陽光の軍団 Efendi, Zeb
16th-19th Jul 2003

以下の文章は、わたしの黄金弓キャラを描き出すために勝手に考えた黄金弓カルトの歴史、ひいてはペローリア軍事史です。
私が知っている限りのグローランサ知識には沿うようにしていますが、知らないものはその限りではないので、“信用しないで”ください。というか、修正できる人は申告してください。

陽光の軍団 - 歴史時代におけるペローリア地方の軍制の変遷について
著 シェームエルム・アレザスト Shemu'yelm al'Elz Ast

 古来、槍と弓とは陽光を象徴するものとしてダラ・ハッパ人の武器とされた。また、馬は太陽の子であり、これもダラ・ハッパの戦士に欠くことができない。もっとも、古代のダラ・ハッパ人は今日のように馬に乗って槍をしごき弓を引く、ということはなかった。これまた太陽の眷属であるロカーノウスの発明した車輪を組み合わせ、馬は戦車を牽くために用いられた。
 この戦車には馬を操る者(ハイアロール)、槍を構える者(イェルマリオ*)、そして弓を引く者(黄金弓)の3名が乗り、戦車はそれに応じて大きく、二頭の馬で牽かれた。
 戦場では、この戦車は横隊一列に配され、敵の軍団めがけて一斉に突撃した。車輪にはスパイクが付けられており、敵は戦車を交わすことすら難しかった。無論、突撃時に壊れる戦車もあったが、ゆえに横隊一列なのであり、事故は連続しない。この戦車の突撃を生き延びた敵には、遅れてやってくるシャガーシュによって殲滅された。

 この戦車軍団の栄光はかなり長く続いたが、やがて、よりにもよってペローリア二級市民たち* によって影がさした。

* 属州民とも呼ばれる。ダラ・ハッパ人が征服した周辺のペローリアの諸民族である。一級市民であるダラ・ハッパ市民より地位が低く、三級市民である奴隷より地位が高いのでこう呼ばれる。都市に住み、解放の機会のある奴隷と、彼らよりは高い地位を与えられた属州民とは互いに卑しみ合うことでダラ・ハッパの階級社会を安定させた。この時代、「ペローリア人」とは田舎者とか農民という意味で使われており、属州民たち自身はそれぞれダールセン人とかリンリディ人と称していた。

 高地(セアードやドラゴン・パス)の弱小民族らは互いに結束して勢威を高め、「万民平等」をその理念に掲げた。無論、この平等は今日われわれが女神から享受している真の平等ではなく、単なる政治宣伝である。それが証拠に、彼らはペローリアの属州民に伝道師を派遣しては反乱を指嗾していた。
 これに踊らされた属州民らはダラ・ハッパに対して各地で蜂起した。ダラ・ハッパは秩序の何たるかを訓令する意味も込め、これに正規軍をぶつけた。予想通り反乱軍は算を乱して潰走したが、このあと予定外の展開となった。ばらばらに逃げ惑う彼らに戦車軍団は応対できなかったのだ。戦車は方向転換が容易ではないのである。戦車軍団の混乱を見て取った反乱軍は取って返し、反撃した。そこで彼らは戦車のもう一つの弱点を発見した。反乱軍たちもやはりダラ・ハッパ槍を使っていたのだが、これを投じて車輪に突き刺すことで戦車の動きを止め、車輪を破壊した。
 ダラ・ハッパはこうして軍事的に敗北したが、やがて政治的に挽回した。高地人の政治理念を逆用し、これを乗っ取ったのである。
 ダラ・ハッパではその後も戦車の栄光が忘れられずにいたが、裏切り者の二級市民によって戦車の対処法を学んだペント人に、銀のスュリイレの戦い Argentium Thri'ile で完敗し、以後、戦車は用いられなくなった。

 その後、ペント人との度重なる戦闘とその合間の交流によって、ダラ・ハッパ人は馬に乗ることを覚え始めた。だが、一人で弓を引き剣を振るうペント人に対して、ダラ・ハッパ人は弓を引く者は弓を引く者、槍を構える者は槍を構える者で訓練して、ようやく対抗できた。だがダラ・ハッパ人はこの不利を戦術で補った。比較的重武装の槍騎兵を主力とし、左右に軽装の弓騎兵を置いて、中央の槍騎兵が突進する間に左右の弓騎兵は急進し、敵を包囲する、というものである*。このような戦場を把握するため、指揮官は塔車などを戦場でこしらえさせ、そこで差配していたが、彼らはしばしば魔術的狙撃の的となった。

* このような戦術の洗練に伴って、シャガーシュの戦士たちは次第に主戦場からはずされていった。彼らの強さのリズムが戦術家の計算にそぐわないためである。彼らは一般に威力偵察、陽動、決戦時の予備兵力、そして恐るべき督戦隊として用いられた。

 このようにして古代後期のダラ・ハッパの戦術は平原でのペント人との戦いによって洗練されていったのであるが、これがために、ナイサロール帝国崩壊時の峠をめぐる戦いではかなり苦戦したようである。もっとも、ナイサロール帝国崩壊時の戦いの様子は、ソッグの大巻やノチェットの数々の断章、あるいは高地人たちに伝わる口唱といった風に、勝者側の記録しか残っていない。盆地での戦いでは、ダラ・ハッパ騎兵隊も乾坤一擲の働きを示しただろうとは予測される。

 平原ではペント人と優劣を競いつつ世界最強を誇ったダラ・ハッパ騎兵軍団であったが、この優位を覆したのは西方からの騎士軍団であった。
 馬をこよなく大切にする心情はダラ・ハッパ人とペント人で共通しており、彼らの間では馬を狙うことはこの上なく卑怯な行為と考えられていた。だがカルマニア人にはそのような慣習はなく、馬を狙うのは騎兵に対するに当然の戦法と心得ていた。そして、突進してくるダラ・ハッパ騎兵に対し、カルマニア騎士は無情に弩弓を一斉射撃した。ならば、とダラハッパ弓騎兵隊は弓を持ってカルマニア騎士の馬を狙ったが、馬を狙うのを当然と考える彼らは当然ながら馬にも鎧を着せることでその危険を回避していた。
 なお、今日馬肉を食するのはカルマニア人が持ち込んだ風習であり、それまでのダラ・ハッパ人は駄馬といえども丁重に葬ったものであった。

 ペント人との戦いで変容したダラ・ハッパの戦士は、カルマニアとの戦いの中でも変容していった。だがこの度は、カルマニア重騎士のスタイルを真似る、というわけにはいかなかった。ダラ・ハッパの馬は西方の馬よりも小柄で、いかにも重装備に耐えなかったからである。槍騎兵たちは馬から下りて方陣を組むようになった。今日のイェルマリオのスタイルや帝国本土のファランクス・カルトのスタイルはここに始まる。だが、彼らが馬とかかわり深いことは、今日でもその教典からも伺うことできる。弓騎兵はそのスタイルを維持した。

 EWFの最期を締めくくる真性黄金軍団の遠征は、悲惨な形で終わった。ドラゴンの殺戮からの退却戦で、弓騎兵は殿軍を守って空飛ぶドラゴンに果敢に射掛けたとも、速力を頼んで味方を見捨てて潰走したとも伝えられる。事実としては、足の遅いファランクスがほぼ全滅したのに対して、弓騎兵は数を数えられる程度には逃れ、かといってダラ・ハッパに帰ることもできず、高地に定住した、ということはわかっている。彼らがフワーレン・ダールシッパの南方計略を助けたことは後述する。

 真性黄金軍団の遠征の疲弊冷めやらぬダラ・ハッパの城門が月の解放軍の前に開いたとき、主だった戦いは行われなかった。この件に関して造反者どもの反帝国的言説が燻っているが、私は理を弁えるダラ・ハッパ市民がより優れた理論に頭を垂れたのは至当であったと信じる。

 チャー・ウン族の死命を制した七頭馬の戦いでは、初戦は黄金弓の弓騎兵とチャー・ウン騎兵との駆け引きで終始したが、黄金弓は次第に追い詰められ、チャー・ウン族が勝利を確信したとき、自分たちが月の魔術師たちの十字砲火点に誘い出されていたことに気づいた。帝国軍の得意技となる魔術師部隊と軽騎兵との連携がはじめて劇的に成功した戦いだった(ファランクスは魔術師部隊の前に置かれて敵の突撃に備え、隙あらばこちらが突撃する)。だがその後、皮肉なことに、この軽騎兵役にはこのチャー・ウン族が多用されることになった。誇り高い黄金弓の弓騎兵と違って、チャー・ウン族は「逃げる演技」に逡巡することがないのである。

 青の城の戦いでは一般兵は待機を命じられたが、続く血王戦争ではダラ・ハッパの戦士たちはカルマニア人に対する恨みを存分に雪いだ。この60年に及ぶ掃討戦で、初期の正規軍同士の決戦の際にはカルマニア人の戦術をよく研究したファランクスが大いに戦果を上げたが、やがてゲリラ戦に至ったとき、弓騎兵やチャー・ウン騎兵の連隊は敵の発見に大いに功績があった(カルマニアの城砦はその重厚さで名高いが、月の魔術師たちの前には土塀も同様のもろさで、カルマニア人たちは城砦に拠って抵抗することを断念したのである)。

 血王戦争のさなか、トライポリスの一部の造反者どもが語らって帝国に反旗を翻す事件があった。さすがにトライポリスは帝国政府の徹底的な鎮圧によく15年持ちこたえたが、結局は敗れた。この戦いにイェルムもオスリルも助勢しなかったのは、彼らがこの戦いは一部の卑怯者たちが自分たちの利益のためだけに起こした戦いであることを知っていたからである。
 戦後、戦犯とその家族は原聖地の東方、今日のオラーヤに強制移住させられ、ペント人に対する生きた防壁とさせられた。多くの者が寒風に打ちひしがれてのたれ死んだが、一部はペント人から生きる知恵を学び、やがて今日にはコサックと呼ばれる無頼漢集団の核となった。

 血王戦争が単なる「カルマニア問題」と人々に意識されるようになった頃、勝利の娘による輝かしい南方計略が始まった。真性黄金軍団の敗残兵の末裔たちは勝利の娘を熱狂的に迎えた。彼らは地理に精通しており、見晴らしのよい丘陵地帯で飾り立てた鈍重なセアード・ヤールは彼らに一方的に狩られていった。
 装備でも建築技術でもカルマニア人に劣る高地の蛮族らが帝国軍を悩ませるのは、彼らの動員力にある。どの家の子でも男子と生まれたからには小さな頃から戦いの訓練を怠らない彼らの社会は、その男子構成員のほとんどが(時には女子も)戦士たりうる。これに対するに、勝利の娘はオスリル川の第一瀑布のあるジラーロから占拠した重要な拠点フィリチェットまで魔術的な幹線道路を引いた。名高い「娘の道」である。これによって下ペローリアの物資は何度も船を乗り換える手間なく前線に届けられるようになった。フワーレン・ダールシッパはその征服地の広さゆえではなく、兵站の重要性を世に知らしめたがゆえに偉大なのだとする意見に私も賛成である。
 結局、高地の蛮族らは帝国の真理ゆえでなく力ゆえに服した。そうして勝利の娘は彼らにも崇められたが、この戦いで功のあった黄金弓の弓騎兵は彼らの隠された敵意に晒されている。これまでに寺院の焼き討ちなど、数々の紛争が起こったが、帝国はそのつど公正な裁きを示した。

 シェン・セリレスの侵略に対して、帝国は魔術的には騙まし討ちされたに過ぎなかったが、軍事的には帝国の複数兵種のコンビネーションはペント騎兵に完敗した。彼らもまたダラ・ハッパ人の戦術を研究していたのであり、ペント人は斜線陣を敷くことによって帝国軍の左翼が突出するのを妨げたり、あるいは擬似潰走して騎兵と歩兵を切り離した上で各個撃破したりした。
 勝利したペント人は、馬を没収して故国に連れ帰ることでダラ・ハッパ騎兵の存在を抹消し、農民を殺して田畑が荒れるに任せて牧草地とすることで帝国の物資供給の根幹を破壊した。街を焼き、無辜の民を虐殺するのはどこの軍隊もやることだが、ペント人は上述のやり方で帝国軍、とくに騎兵隊の再建を不可能にした。したがって、この後の解放戦争で騎兵隊はほとんど活躍していない。また、恐るべき「馬喰い」を馬をあれほど愛したダラ・ハッパ人ですら熱狂して迎える心持になっていた。

 戦後も騎兵隊不遇の時代が続いた。ダラ・ハッパがペローリアを支配していた頃には、ダラ・ハッパ人がペローリアに資本を投下するということはほとんどなく、ペローリアの農民は大地が生まれた頃と変わらぬ天水農業に甘んじていたが、帝国政府は積極的にペローリア開拓に取り組んできた。帝国政府によって引かれた運河によって、地味が豊富ながら水利と交通の便から放棄されていた多くの盆地に人が住むようになった。これが、ペントの軛以後は騎兵隊の自由な行軍を妨げるように軍事目的で運河が引かれるようになったのだ。
 爾来、帝国本土が戦場になったことはないが、仮に敵が攻めてきたとしても、無数の運河をわたるのに苦慮する間に、ボートに乗った帝国軍がこれを分断し、各個に撃破する、と将軍らは仮想している。この戦術を生かすため、帝国本土の守備隊は軽い非金属の鎧に身を包み、船上で敵を射る弓、船上から敵を刺す槍、下船して敵に斬り込む剣の訓練を積んでいる。もちろん泳ぎも達者なものだ。彼らは運河網の発達とともに跋扈し始めた水賊との戦いで日々戦術を向上させている。彼らが恐れるのは、己が実力で対処しうるかもしれない敵ではなく、水であり、彼らの多くがオスリルやその他派生カルトに入信している。
 このような戦闘では、騎兵は無用である。彼らは南方の最前線では今も活躍しているが、帝国本土の軍名簿に載っているこれらの兵のほとんどは名簿上だけの存在である。ファランクスは、運河上に孤立した敵を最終的に追い詰める役目を期待されている。

 かつて戦術的に囮として使われた騎兵隊を、今ウェインに入った一連の大戦で将軍らは戦略的に囮として使うことを覚えた。
 サーター征服戦争では、ルーンゲートでの激しい戦いの後、ボールドホームへの細い山道が将軍らを悩ませた。そこで彼らは騎兵隊を2つに分け、一隊をストリーム川の上流へ、一隊を下流へと派遣し、そこから前者はスウェンズタウンへ、一隊はウィルムズカークへと進軍させた。道中彼らには派手に行動してサーター主力の注意をそらし、あわよくば目的地を占拠して、前者はプラックスからの、後者はヒョルトランドからの増援を阻止することを命じられた。この、成功すれば幸いの陽動は思わぬ効果を生んだ。サーター主力軍を構成する地主たちが自分たちの領地を荒らされて憤慨したのである。彼らが動揺したのを見計らって、ファランクスが「王の道」を南進したが、これすらも囮であった。ジョンスタウン付近ではじまった激しい攻防を尻目に、ルーンゲートに待機していた紅の蝙蝠が直線距離をとってボールドホームを襲撃したのである。
 サーターが攻撃に晒され始めた頃、ケタエラの聖王国政府は冷酷に自国の防御策を講じ始め、エスロリアは長城で蓋をされた。聖王国の防御がどのようなものであるかの威力偵察に、聖王国軍が過敏に反応して一大会戦となったのがビルディング・ウォールの戦いであり、エスロリア人は今でもこの戦いを思い出しては自分たちがわれわれより純軍事的には勝っていたのだと信じようとしているが、戦略的にはそれほど意義のある戦いではなかった。長城は確かによくできた防御施設で、丘の稜線上に配され、サーター側の樹木はすべて切り倒されていて、攻め手には身を隠すところがない。魔術的にも十分な防御が施されており、また政治的にもそうである。すなわち、これを避けようとすれば影の高原かアーストラのいずれかを敵に回すことになるのである。先遣隊は、弓騎兵が馬から下りて戦うなど奮戦し、前線指揮官は増援を求めたが、大将軍はこれを受け入れず、不幸にも先遣隊は壊滅した。だが、全体的な損失は重大ではなかった。何よりも、帝国軍はこの長城に正面から当るのは愚かであることを学んだ。この教訓が45年(1616年)から始まる本格的な聖王国征服戦争に生かされることになった。
 プラックス征服戦争を決したムーンブロスの戦いに先立って、帝国軍の将軍たちは久々に大規模な包囲戦が展開されることを期待した。だが戦が始まってみると、馬を毛嫌いするプラックス人らが左右に展開する騎兵隊に襲い掛かりとんだ番狂わせとなった。騎兵隊は壊滅したが、彼らは帝国軍主隊に道を空けてしまい、愚かな番兵を持った哀れな祈祷師たちは槍の穂にかけられた。
 カーシー攻略戦では、前線主力軍はウィルムズカーク前方に置かれて牽制となっていただけで、実戦には帝国本土から召集された水軍が用いられた。名高い聖王国海軍の目をかわしてほとんど無傷で上陸した彼らが相当な域に達しているのは疑いない。
 ホワイトウォール攻略戦でも、水軍を用いた戦略的包囲網が構築され、ホワイトウォールに立て篭もる者たちはなんら為すところなく城砦内に閉じ込められている。この稿が執筆中の今も包囲は続いているが、彼らがいかに奮戦したところで援軍があるわけではなく、帝国軍としては気長に兵糧攻めにしてもよいところであるが、将軍たちはこの戦いを、壮大な戦争の幕引きにふさわしいものにしたいと考えているようである。

 かつて、人々が闇の中を這いずり回っていた頃は個人の力量が勝敗の運命を決した。その後、ダラ・ハッパ人は戦術の冴えで運命をこちらに引き寄せた。いま、月の恩寵の下で高度に洗練されたわれわれは壮大な戦略と兵站とで運命を我が物にしようとし、またそれは成功してきた。この展開は、要するにどんなに弱い兵でも勝てることを考えてきた道筋であるが、弱い兵でも勝てるからといって、われわれを守護してくれる精鋭たちをおろそかにする、ということになってはならない。
 昨今、兵役を疎んじる市民が増え、また兵たちの軍紀は乱れ、民衆に狼藉を働く者もあるという。将軍たちの壮大な戦略の中でいつ捨て駒にされるか知れない立場なれば、これらの現象は、許容はできなくとも理解はできる。私も34年(1605年)の戦いで辛うじて命を拾った身である。戦場で息子に語るべきいさおしを上げることができなった父親の息子たちが、どうして次代の帝国の壁たりえよう。
 無論、戦術や戦略を磨き上げるのが悪いことではない。これらを果たした上で、なお兵たちに誇りをもたせるにはどうするか、という点もあわせて考えるのが次ウェインの軍事上の課題となろう。


[Zeb]
Efendi殿、もっともグレッギングの激しい地域についての設定ですね。ざっと見た限りでは貴方のライトアップは非常にTarsh War、ペローリア三部作やグレッグやImperial Lunar Handbookの最近の設定以前の設定に類似しているものがあると思います。
背景世界について貢献することについて思うに、設定を細かく作るのと設定を整理するのとではベクトルが反対になることが往々にしてあります。たとえば、この場合、昔の設定で太陽神殿というのはおおまかにペント、ダラ・ハッパで共有されるものでしたが、いまでは細分化の方向でダラ・ハッパの弓術の神はサジトゥス、遊牧民は黄金弓というように分かれていることになります。

しばらく前にこの掲示板で話題になりましたが、ダラ・ハッパの軍制の歴史についてしばらくの間、大量の資料が公式サイトで公開されました。お送りしませんでしたっけ?(チャリオットの歴史についてもそれなりに触れられています。)
http://209.238.203.66/new/myth.html

>  この戦車には馬を操る者(ハイアロール)、槍を構える者(イェルマリオ*)、
> そして弓を引く者(黄金弓)の3名が乗り、戦車はそれに応じて大きく、二頭
> の馬で牽かれた。

全て蛮族の神々です。(ペント人、オーランス人)

> * このような戦術の洗練に伴って、シャガーシュの戦士たちは次第に主戦場か
> れていった。彼らの強さのリズムが戦術家の計算にそぐわないためである。
> 彼らは一般に威力偵察、陽動、決戦時の予備兵力、そして恐るべき督戦隊とし
> て用いられた。

かならずしも、アルコス軍に騎兵軍団が存在しなかったわけではないようです。シェン・セレリスの征服に加わった英雄Turrogusなど。

> Argentium Thrille

このラテン語もどきの戦争はしばしばBattle of Silver Flameと英語に訳されます。

ILHの設定では、現代のペローリアでは重装歩兵はペランダからの伝統で、ダラ・ハッパはその流儀を真似た方という説が有力なようです。(詳しくはダクスダリウスとウルヴァイリヌス皇帝について調べてください。)

[Efendi]
Efendi殿、もっともグレッギングの激しい地域についての設定ですね。ざっと見た限りでは貴方のライトアップは非常にTarsh War、ペローリア三部作やグレッグやImperial Lunar Handbookの最近の設定以前の設定に類似しているものがあると思います。
背景世界について貢献することについて思うに、設定を細かく作るのと設定を整理するのとではベクトルが反対になることが往々にしてあります。たとえば、この場合、昔の設定で太陽神殿というのはおおまかにペント、ダラ・ハッパで共有されるものでしたが、いまでは細分化の方向でダラ・ハッパの弓術の神はサジトゥス、遊牧民は黄金弓というように分かれていることになります。

しばらく前にこの掲示板で話題になりましたが、ダラ・ハッパの軍制の歴史についてしばらくの間、大量の資料が公式サイトで公開されました。お送りしませんでしたっけ?(チャリオットの歴史についてもそれなりに触れられています。)
http://209.238.203.66/new/myth.html

> [イェルマリオ、ハイアロール、黄金弓は]全て蛮族の神々です。(ペント人、
> オーランス人)

最初からそうだったのでしょうか? 2つのパターンが考えられると思います。

1. 最初にダラ・ハッパに文明が起こった頃、イェルム、イェルマリオ、ハイアロール、黄金弓といった基本的な神々が崇められていたのだが、その後、ダラ・ハッパの社会発展によって古い神々は忘れられていき、ダラ・ハッパでは別の新しい神々が創り出され再発見され、一方辺境ではダラ・ハッパとの交流から学んだ古い神々への信仰が残っている。

2. 最初にダラ・ハッパに文明が起こった頃、彼らはイェルムやシャガーシュ、その他(私の知らない新設定)の神々が崇められ、またペントではハイアロールが、上ペローリアでは黄金弓が崇められていたものが、ダラ・ハッパ文明の影響圏が広まるにつれ、これら辺境の神々が太陽神殿に組み入れられた。

3. そもそも私が拠り所にしている神系統図そのものがなかったことになっている。

1, 2 どちらもありえることで、ギリシア神話で言えば 1 の辺境の神々はクロノスやタイタンなど、2 の辺境の神々はディオニュソスなどのパターンです。
私は 1 の立場で先の文章を書いたのですが、考えてみるとグローランサの民は世界に置かれた時から神とともに在るようなので、文明の進んだ地域から宗教を取り入れる、というパターンはありえないのかも、ね。

> かならずしも、アルコス軍に騎兵軍団が存在しなかったわけではないようです。
> シェン・セレリスの征服に加わった英雄Turrogusなど。

ごめんなさい。認識不足でした。

それはそれとして、私のイメージではアルコス軍は十字軍時代の十字軍やガーズィ(イスラム信仰戦士;内容は十字軍と同じ)のような感じで、打撃力は高いけど統率しがたく、結局、歴史上トルコのスルタンがガーズィーを扱ったように、敵の領土に送り込んで略奪を働かせ、これを戦略上では陽動に使ったり威力偵察に使ったり、といった使い方しかできないんじゃないか、と思ってるんですけど。

> ILHの設定では、現代のペローリアでは重装歩兵はペランダからの伝統で、ダラ・
> ハッパはその流儀を真似た方という説が有力なようです。

ペランダというと“西洋化”以前のカルマニアで、ウルヴァイリヌス帝は暗黒時代の人ですね(こういう情報はみな TOME にまとめられていた。すばらしい)。

さて、先の私の仮説では、

チャリオット -> 軽騎兵 -> 重装歩兵

というペローリアの主戦力兵種の変遷が語られていたわけですが、これは、現在のルナー帝国の主力が重装歩兵であることと、イェルムがチャリオットに乗った姿で描かれることを直線でつなぎ、ブランクを埋めたものです。

この変遷、ことに軽騎兵から重装騎兵の変遷については、アレクサンドロスの時代を考えの根拠にしています。

弓騎兵でオリエントを征服したペルシア帝国が、アレクサンドロスとの戦いの時にはサルディスなどにギリシアのファランクスを傭兵として雇って置いていた、ということがあるんです。
これは、ペルシア弓騎兵よりファランクスのほうが優れているとペルシアが認めたからなのか、それとも現地で採用できる兵種これだけだったのか。アレクサンドロスの軍隊がギリシアの軍隊と比べられるとき、その騎兵の重視が注目されることを考えると、やはり歩兵は使えないのか、とも思いますが、私はこのアレクサンドロス軍の評価について、にわか作りの騎兵軍団が本場のペルシア騎兵に対してどれだけ優位だったのか、とも疑問に思っています。
あるいは、周知のとおり騎兵は守備は苦手ですが、当時のペルシア側の防御心理が歩兵採用をさせたのか、とも。

逡巡はともかく、私のペローリアの仮説は、重装歩兵が軽騎兵に勝る時代があった、というところを根拠にしています。

もっともこの時代は長くは続かず、ヴァレリアヌスの敗北で、再び騎兵の時代になります。私の仮説ではシェン・セリレスの侵攻をこれにあてています。

これが、重装歩兵が暗黒時代からあったとすると、その優位がいかにも長いのではないか、と思われます。
もっとも、重装歩兵といってもファランクスのようなものではない、と思うのですが。例えば、中世のイコンにキリスト時代の兵士がイコンが書かれた時代の全身金属鎧の姿で描かれたりしますが、あれと同じで。
また、重装歩兵が主戦力であったなら、イェルムは歩兵として描かれるのではないか、と思うのですが。もっとも、天宮の時代にチャリオットが使われ、暗黒時代には歩兵に変遷した、という説も採れるとは思いますが。
私的には、神の力はスタイルでは左右されない、と思ってます。むしろ神のスタイルは人間の歴史の反映、とくに暗黒時代末期ころの反映であろう、と思ってます。彼らは実際に神様を見ているわけだし。とくに兵装については天宮の時代に戦いはなかったわけだし。
とはいえ、自説に拘泥しても仕方ないので手を打つと、
やはり、重装歩兵は歩兵に有利な地形である南方や西方に展開され、対ペントには騎兵があてられた、といったところではないでしょうか?

 
歯擦音 Efendi, Malion
19th-25th Jul 2003

> 銀のスュリイレの戦い Argentium Thri'ile

またまたへそ曲がりにも既存訳に抵抗しているわけですが、トピックにしたいのは「スュ」です。

以前、グローランサの固有名詞については字句どおりの発音とする、と自分で勝手に決めたんですが、問題なのは th 音でした。
th は、thing などのような「スュ」音と、this のような「デュ」音、そして Thor のような「トフ」音があります。(発音記号が出せないので、片仮名で勘弁。でも、苦労がしのばれるあて方でしょ?)

-h は舌先に力を入れる意味があり、子音によって息が鼻に抜けるか、歯の間から漏れるかに差がでます。
bh (ブータン Bhutan とか), gh (グール ghoul とか), kh (ハーン Khan とか), th(トール Thor とか) は鼻から抜け、
ch, dh (ダウ dhow とか), ph, sh, th (スィング thing とか), zh (ヅュングオ Zhunguo とか)は歯の間から漏れます。
とはいえ、鼻から抜ける音は英語にないのでなじみがないのですが。

まず、「デュ」音は dh で代用できるので無視します。

で、「スュ」音か「トフ」音なんですが、知ってる限りの世界標準から言うと後者の方が多い(というか、英語以外で「スュ」音って聞かない)ので、以前はこちらを採っていました。
(Zeb さんの訳が、実はこちらだったので、ひそかに賛意を送ってました。)

が、最近心境の変化が。
ドラゴン・パスをはじめ中央ジェナーテラは数世紀にわたる長い EWF 支配の時代があったわけですが、この間古ワーミッシュ語が公用語だったわけです。むろん、今日のペローリアのように、庶民は中世エスロリア語などをしゃべっていたのでしょうが、古ワーミッシュ語から多大な影響を受けただろうこと、疑いありません。
無論、その後ドラゴン的文化の排斥運動はあったんでしょうが、近代の中央集権国家ならともかく、まともな国家すらなかった12-13世紀の中央ジェナーテラでそのような運動が不徹底に終わったことも疑いありません。そして、この運動が一世代で決着を見なかったなら、古ワーミッシュ語訛りの中世エスロリア語で育った子は古ワーミッシュ語訛りが固定化されるでしょう。

で、その古ワーミッシュ語訛りなんですが、ch, dh, ph, sh, th, zh といった歯擦音が多いんだろうな、と。

加えて、竜および蛇の影響は、クラロレラやセシュネラでもはなはだしかったと思われ、このような文明中心地がそうであった以上、ここから生まれた新しい概念や発明もまた歯擦音がかりの音を持っていたとすると、周辺民族も影響を受けるだろう…。

ということで、グローランサの言語は全体的に歯擦音が多いのではないか、と。

そういうわけで、th は「スュ」音で読むことにしたのです。
それにしても、Thri'ile ってなんだろう? とりあえず地名ととったが。

[Malion]
ダラ・ハッパ語の発音については、Fortunate Succession のp.103~104に、アルファベット(ルーン文字)とその発音についての解説があります。
ダラ・ハッパ語はルーン起源のアルファベットで書かれるとされてまして、その中に Th をあらわすアルファベットは2つあります。ひとつが「スュ」音、もう一つが「デュ」音をあらわすみたいです。

イェルムは、
(神性を表す文字:発音せず)-Y-E-L-M-(男性を表す文字:発音せず)

ルフェルザは
(神性を表す文字:発音せず)-R-U-F-E-L-Z-(女性を表す文字:「ア」)
などと表すみたい。

文字は、Z,T,U,R,L,Th,F,P,I,E,M,S,O,A,H,G(強),N,D,Sh,J,Qu,W,B,K,V,Kh(喉音),Y,Th(強),Ch の28文字+接頭辞・接尾辞の8文字を加えて36文字。

……しかし、これだと既出の単語の中に表せない単語が出てくるんじゃないのかなぁ。大丈夫か?

[Efendi]
ダラ・ハッパ文字をアルファベット順に並べると、

A,B,D,E,F,G(強),H,I,J,K,L,M,N,O,P,R,S,T,U,V,W,Y,Z,
Ch,Kh,Qu,Sh,Th,Th(強),

で、無い文字は、
C, Q, X

c で表す「K」音はドイツ語みたいにすべて K で、また q で表す「Kw」音は「Qu」で示すようなので、英語の発音はすべてできるようです(プラス Kh)。
[「G(強)」とあるのは、「G(弱)」もあるのかな、という感じですが。「ぐゎんばる」とかの Gw 音ですね。]

よく、俗説で東北の人は寒いからあまり口を開かない東北弁を話すのだ、などといいますが、その点で、ダラ・ハッパ人もウムラウト(Ue ウュとか Oe オュとか)を使うのではないか、とも思いましたが、日本人にも発音しにくいので、無くて幸い、と。

もっとも、前に表音節文字(日本語の仮名のように母音を含めた文字)という話も聞いたような気もしましたが、あるいはあれはゼイヤラン語か、西方語か。
[実際、それだと作るのは大変ですね。]

 
ボルグ Efendi, Zeb
26th Jul - 8th Aug 2003

[Zeb]
そうそう、トロウル・パックのウズの書によると、ウズ社会ではボルグが銀貨と同程度の価値らしいです。参考まで。

[Efendi]
> そうそう、トロウル・パックのウズの書によると、ウズ社会ではボルグが銀貨と
> 同程度の価値らしいです。参考まで。

ボルグについては、貨幣として考えるからおかしくなるので、これをただの鉛という商品として考えると、トロウル社会での鉛需要から、ボルグ(と呼ばれるトロウル社会での鉛)が人間社会の鉛より高くなる。そして、トロウル社会では、人間社会で布や塩が零細貨幣代わりに使われるように、噛み千切った鉛が使われる、という風に考えていいんじゃないか、と考えていたところなのですが…。

100倍も過高評価されるとなると問題です。
例えば、16世紀、カイロの胡椒はヴェネツィアで5倍で評価される程度なのですから(これでも、大航海時代の動機になるほど高かったわけだ)。

こうなると、ボルグは信用貨幣なのではないか、という疑いがもたれます。現代の10,000円でも材料自体は18円程度の価値しか持たないのと同様に。
紙幣の場合にはその価値を維持するため、つまり偽造されないため、さまざまな工夫がなされているわけですが、ボルグはただの噛み千切った鉛の塊。そんなものになりうるのか、とも思われます。

わたしはこう想像します。ボルグ貨幣は女王トロウルがじきじきに噛み千切ったもので、またトロウルはその噛み跡の違いが見分けられる、と。(当然、女王の噛み方を真似ようとした者は罰せられる。)

このようであるとき、ボルグは人間には違いが分からないのでただの鉛の塊として扱われる、と言いたいところですが、例えば日本でドル紙幣が通用しないからといってこれをメモ代わりに使う日本人はいないのと同様、ボルグもアーガン・アーガー・カルトなど適切なところに持っていけば、適当な価格(手数料を引いた値)で交換してもらえるのではないか、と考えられます。
にもかかわらず、ボルグが人間社会でただの鉛の塊として扱われているのは、ボルグ貨幣に似た鉛の塊がごろごろしていて、人間には判別できない、という状況を想像するしかないでしょう。(つまり、トロウルが日常的に鉛を噛み千切ってスリングの弾として使っている。)

そのようであれば、人間社会には真正のボルグ貨幣は、落としたとか、偶然でもない限り入ってこないことになります。
人間がトロウルの洞窟を襲撃すれば、大量のボルグ貨幣が入手できるでしょうが、これを使ってトロウルと交易をする、ということはできないでしょう。入手手段が知れているからです。盗品と同じで。(盗品と同じ、と考えると、ヤクザなトロウルがいるとすれば、彼がだいぶ足元を見てではあるけれど、引き取ってくれるかもしれない。)

一方、トロウルとの取引を主に扱う商人は、ボルグの目利きとなっているでしょう。

また、女王トロウルには莫大な差額が転がり込むような感じがしますが、これは現実の貨幣と同じで、信用の裏付けなしに乱発すれば、インフレを引き起こすはずです。やはり、女王トロウルの蔵には信用の裏付けとして高価なものが蔵されている、と思われます。それが人間にとって価値のあるものなのか、トロウルにとって価値のあるものなのかは微妙ですが、やはり金貨が一番価値が高く計量が容易であるので、その大部を占めるものと思われます。
(鉄は、金と違って実用価値があり、また《呪鍛》があることから、剣など何らかのかたちをとっていることが多いと想像されます。であると、その品物ごとに価値が異なるので、計量は難しくなります。宝石と同じ。)

[Zeb]
管理者殿のアイデアと一致しているとは思えませんが、James Frusetta氏がボルグについて結構書いていますので、読んだら面白いかもしれません。

First Bolg
http://www.wam.umd.edu/~gerakkag/firstbolg.html
Castle of Bolgs
http://www.wam.umd.edu/~gerakkag/bolgcastle.html

> やはり、女王トロウルの蔵には信用の裏付けとして高価なものが蔵されている、
> と思われます。それが人間にとって価値のあるものなのか、トロウルにとって
> 価値のあるものなのかは微妙ですが、やはり金貨が一番価値が高く計量が容易
> であるので、その大部を占めるものと思われます。

うーん、金は光のルーン金属なのでちょっと無理があると思いますが。

> それが人間にとって価値のあるものなのか、トロウルにとって価値のあるもの
> なのかは微妙ですが

私としては後者に賛成したいです。(「闇の目」でないと価値の見えない芸術品とか、歌とか。)

http://www.wam.umd.edu/~gerakkag/coins.html

 
マルキオン諸宗派の教義上の差異 Efendi
12th Sep 2003

いま、フレストル求全派新教会 The New Hrestoli Idealist Church (以下、新フレストル派)の勃興によってロスカルム社会がどのような影響を受けたか? という質問をされているんですが、それは新フレストル派が従前の教えから何を変えたのが分からないと答えられない、ですよね。

そうやって、その前、その前、と見ていくと、より新フレストル派の教義がはっきりする、と思って、頭をひねりました。


最初に、原始フレストル教会が「慰めの野」の概念を導入します。

そして次に、テイロールの北方教会、ガーラントの南方教会、ヌララールのジルステラ教会に分かれるんですが、ジルステラ教会が神知者に発展して、彼らがヒーロークエストやり放題だったことを考えると、北方教会と南方教会はアーカットの衝撃を受けて、ヒーロークエストを抑制することが一つの教義上の要にあると思うんです。

ちょっと、北方教会と南方教会の差は置いておいて、

北方教会はフレストル改革派教会 The Hrestoli Reformed Church となり、さらに新フレストル派となっていく。フレストル改革派教会は階級の移動を認めつつ、階級が世襲するという折衷案。新フレストル派はさらに過激に階級の世襲を認めない、という形で進展します。

南方教会は、まず第5階級である騎士階級を新たに見出すフレストル正教会 Orthodox Hrestoli が派生し、後にロカール公教会 The Universal Rokari Church が勃興するわけですが、ロカール公教会が階級の世襲、階級間移動の禁止を掲げていることから見て、フレストル正教会もまた、騎士階級は創設したけれど、この階級以外への移動は禁じられていたように思われます。

北方教会と南方教会は、その後に発展した新フレストル派とロカール公教会の特徴から見て、北方教会は階級間異動をある程度是認し、南方教会はほとんど拒絶した、ように見えます。

で、これより以前の原始教会ではどうだったのか?
先に、北方教会と南方教会がヒーロークエストを抑制した、と述べましたが、ヒーロークエストがあるとき、これを達成した者が階級に囚われているだろうか? と思われます。あるいは、フレストル正教会が発見した第5階級とは、ヒーロークエスター階級のことではないのか?
でも、もし原始教会が階級間の移動を是認したものであったなら、原始教会の中心地はセシュネラだったわけで、いかにガーラントといえど、これに帰依する多くの人々を敵に回して階級制を復古させるわけには行かなかったでしょう。
そこで思うのは、

フレストルは階級制にとくに疑問を抱かず、否定も肯定もしなかったが(、例えば、キリストが人種問題について語っていないように)、ヒーロークエストは是認していたので、結果として、階級制が崩壊しつつあった。

これを、ガーラントは意識的に修復した、のではないか?

一方、テイロールは、その後フレストル改革派教会がやっと階級間の移動を是認したことから見て、彼はそこまで制度の変革を志向できず、単にヒーロークエストの抑制にとどまって、制度改革には手をつけなかったのではないか?

そこら辺の北方教会の哲学的脆弱さが、ヒーロークエストを容認どころか称揚さえする神知者の前に植民地とされる結果を招いたのではないか?

逆に、各人がヒーロークエストによって政府の抑制の届かない力を次々と身につけるジルステラは政治的には脆弱であり、軍事力で屈服させたセシュネラに政治的に併呑されてしまったのではないか?

政治といえば、フレストルの頃のセシュネラ王は蛇の女神セシュナの祝福を受ける異教の王であったわけだけれど、フレストルの預言から200年後、「真のフレストルの道」が異端的儀式を禁止します。にもかかわらず、それから200年後に、ニエビ信仰をめぐって是非が問われた、ということは、まだ異教は完全に払拭されたわけではなかったと思われます。
156年にニーイリン Neeilin 王が死んでサーペント王朝が断絶し、以後、ブリソスを巻き込んでの抗争が終結した後、194年にロフティン Lofting 王が生き残って銀の帝国を打ち立てる。これも、286年にウレイロ Ureilo 王が死んで絶え、また混乱があって、326年にパソスのインガロール Ingalor が即位する。これも、415年にニエビ派信仰をめぐる争いでヒールウェルフ Healwelf 王が死んで絶え、同年セシュネラ貴族、ヘルマロール Hermalor が即位。これが453年にタルマコス Talmakos 王の死で絶え、ガーラントに王位が譲られる。そして、ガーラントの王朝は676年にテルモリと結んだタニソール王国に滅ぼされるまで続く。
さて、セシュネラ王は、最初異教者、つぎにセシュネラ貴族、パソス人と移って、ヘルマロールでまたセシュネラ貴族に復す。ガーラントはヘルマロール王家の姫を娶っているので、系統的にはセシュネラ貴族支持の王朝である。
セシュネラでセシュネラ貴族の支持を受けた王朝がなぜ、外国人に倒されるのか? おそらく、中世フランス王国のように他の貴族たちの権益を損ねない弱体な貴族が王として祭り上げられるからではないか?
貴族の圧力に対抗するだけの力が、当時ニエビ信仰問題を払拭した教会にはあった。彼は、貴族階級を魔術師階級の下に置く古い階級制度を持ち出して、教会を味方につけ、貴族を抑制したのではないか? もちろん、セシュネラ王だけは魔術師階級に優越することを認めさせたうえで。
つまり、彼が西方で初めて、教会の権威に基づく王権の基礎を築いたのではないか?
であればこそ、975年になって東フロネラのジョナートがすでに地元にあるフレストル改革派教会を省みず、わざわざセシュネラに来て、王権の秘密を盗みに来たのではないか?

ここまでの解釈を通せば、フレストル改革派教会はすでに北方教会で通用していた不文律を制度化しただけのように見える。なぜ、制度化したのか? それは、ロスカルムにおいて降伏した大量のセシュネラ人(および彼らの影響を受けた人々)のためではないか?
ロスカルム全土からセシュネラ軍が撤退したときが865年、“善良王”グウェンリックのロスカルム王即位が891年、大封鎖は920年で、この60年はなお、情勢が親セシュネラ派に傾く危険があったと思われる。
ロスカルム神知者帝国軍はかつて東フロネラを征服したが、以前の異教徒は王だろうが何だろうがすべて農奴階級に落とされたのではないか? ここらの統治の無思慮振りが、彼らの反撃を招くことになるのだろう。“善良王”グウェンリックは農奴階級の出、というが、貴種でなければ他のフロネラ人が従うとも思えない。
結局、フレストル改革派教会というものは、降伏したセシュネラ人の財産と権威を保障し、かつ新しいフロネラの実力者の擡頭を認める、というものだったのではないか?
そもそも、北方教会において厳格な階級制が施行できなかったのは、セシュネラよりもずっと異教徒が多いからだろう。改宗者は農奴階級となる、という律法があった可能性は高い。だがそれをそのまま適用すれば、反乱は免れない。そこで、フロネラにおいては、旧支配者層は法律上農奴階級に落とされるが、すぐに「徳を認められ」、支配者階級に参入できたのではないか?
こうであれば、やはりフロネラにおいても階級間移動はほとんど認められなかったことになる。

ついでに、新フレストル派で多くの聖人が祭られているのは、かつて異教が盛んであった頃の名残りであろう。

セシュネラにおいては、神知者の撤退後、フレストル正教会が勃興する。もしこの教会がいう騎士階級が、先の解釈のようにヒーロークエスターであるならば、あるいはこれは古い南方教会の教義と神知者の教義との折衷案であったのかもしれない。
このずっと後、1412年、“鉄槌”ベイリフェスは武力でセシュネラを奪い、1414年にロカール派大司教により戴冠される。彼が、フレストル正教会でなく、ロカール派に戴冠されたのは、おそらく、フレストル正教会とこれを信奉するセシュネラ人の大多数に嫌われていたからだろう。きっと、成り上がり者だったのだ。こうしてベイリフェスとフレストル正教会が対決するようになったとき、ベイリフェスがフレストル正教会を非難した根拠が、騎士階級の是認、であったのではなかろうか?


騎士階級の発見はフレストル正教会の功績であって、北方教会やフレストル改革派教会はこれを知らなかった。新フレストル派で騎士階級があるのは、不思議である。
そもそも、スノーダルはヒーロークエスターだったのだが、彼はどこから現れたのか?
スノーダルがアルティネへ去ったのが1443年だから、彼がベイリフェスに追われたフレストル正教会の騎士であったなら、時間的には符合する。ついでに、彼がロスカルムを追われた理由も得心できる。ただ、この仮説は保留にしたい。ちょっと話がうますぎる。
いずれにしても、スノーダルはアルティネでロスカルムが千路に乱れることを知り、大破門を引き起こす。この大破門こそが彼がアルティネで見た未来だ、というのは運命からは逃れられないとするギリシア悲劇のようだが、実際にはロスカルムはほとんど損害を受けていないばかりか、スノーダルの息子のジグラットが大破門のさ中、諸外国の干渉なしで新フレストル派への宗教革命に成功している。つまり、この宗教革命はスノーダルが見た悲劇的な未来を避けるためのものであった、とも考えられる。
新フレストル派は、階級の世襲を廃したが、これはおそらく既存勢力の没落を招き、また最高の階級として騎士階級を創設したが、これを王家が独占できるならば、とくに教会勢力に優越する権威を王家は得たことになる。あわせて、ロスカルム王権は飛躍的に強大化された。スノーダルの見た未来がどのようなものであるかは依然不明だが、少なくとも政治的崩壊はずっと先延ばしにされたように見える。そうでなくても、スノーダル家が得たものは大きい。
ただ、どうしてこのような革命が成功したのかは分からない。民衆は歓迎しただろうが、彼らには軍事力も魔力もない。
スノーダルではなくジグラットが宗教革命を主導したのは、なんとなく分かる。おそらくスノーダルは苛烈な粛清を断行し続け、力はあっても人気がなかったのだ。信長タイプである。

あまり自信はないが、少し考えてみた。
まず、フレストル改革派教会は旧勢力であるセシュネラ人と新興勢力の共同体であった。しかも階級の世襲と階級間の移動を認めていたため、貴族階級の構成員は増え続け、個々で見れば資産が減少していった。
次に、大封鎖の後、海上ルートが閉ざされたため(アロラニートには寄港できない)、陸上ルートが開かれるようになったが、おそらく以前の海上ルートの権益を持っていたのはセシュネラ人であり、これを分捕った新興勢力であろうが、これらが没落し、別の集団が勃興するようになった。残念ながらこれはロスカルム人ではない。ペローリアとセイフェルスターをつなぐ位置にある、カルマニア、ジャニューブ諸都市、ジョナーテラである。ロスカルムは主要交易ルートから外れて鄙びつつある。おそらく、スノーダルを負かせた蛮族とは、これら、とくにジャニューブ人ではないのか?
廃れつつあるロスカルムで、スノーダルは既存勢力から兵力をかき集め、アルティネで得た知識も動員して、何とか蛮族に勝つ。この賠償を既存勢力に還元せず、自分で着服してロスカルムの筆頭勢力になった後、大破門が起こって、蛮族の影響力は払拭される。かくして、閉ざされたロスカルムで、スノーダル家のみが圧倒的勢力として残る。

歴史のセオリーで行くなら、王権の擡頭の背後には商人をはじめとするブルジョア層の支援があった、とするべきだろうけど、どうもロスカルム商人がこの時代に台頭する見込みはないです。むしろ、商業は衰退して、繁栄するジャニューブ諸都市に農産物や鉱物を供給する、彼らの後背地に転落したのではないか? あるいは、この時代の状況が、新フレストル派の農本主義の背景ではないのか?

しかし、こうであるなら、奸雄スノーダルが独力で天下を取ったわけで、彼としては既存勢力のカウンターバランスとして使う以上には、民衆におもねる必要がない。
むしろ、民衆の素朴な貴種への崇敬心からすれば、スノーダル家は成り上がりで、現状の不満をこれのせいにしかねない。
スノーダル家としては、万民に優越するロスカルム王の権威を、新フレストル派の教義でもって浸透させなければいけない。一方で、造反者の監視は厳しくしなければならない。スノーダル家にしてみれば、旧貴族も民衆も差異はないわけで、とくに民衆の貴種への崇敬心を払拭する必要から、ことさら、ロスカルム人が(王を除いて)平等であると主張した方がよい。だけど、貴族と民衆の万民が平等、といっても下がいなければ、上に王がいるから優越心は喚起されない。そこで、ロスカルム人ないし新フレストル派は他に優越する、として、大破門下のロスカルムにわずかに残った外国人を差別することで、貴族と民衆の統合を図ったのではないか?
こうであるならば、すでに挙げている新フレストル派の教義上の特徴に、ロスカルム人至上主義、というものを加えることができるだろう。

付記・ロスカルムとエルフの関係
大封鎖下で陸上交易によって利益を得るものの中には、ニーダン山脈のドワーフも含まれるでしょう。彼らは、エロン樹、バリッドに接していますが、これらへの襲撃を盛んに行ったと思われます。有り余る財産で人間の傭兵を雇うことで、彼らは大事な仕事を中断することなく毒草を刈り取ることができる。

そんなわけで、大破門はエロン樹やバリッドのエルフに大いに益したでしょう。彼らがスノーダルに冒険を示唆したのかどうかは分かりませんが、17世紀のロスカルムはエルフと仲がよいことは示唆的です。
ついでに、スノーダルがセシュネラを追われたフレストル正教会信徒だったなら、いまなおフレストル正教会が栄える城砦海岸がやはりエルフの土地であることから、どうもエルフとの仲が深いように見えます。

無論、エルフは異教徒であり、ロスカルムの土豪にとって彼らの封土を緑化しようと窺うエルフたちは直接的な敵でもあります。森を開墾し、材木を伐採する人間もまたエルフの敵です。
この両者が手を取り合えるのは、何か特別な事情があると思わざるを得ません。

訂正・スノーダルの故郷
イーズ出身、とありますね。

 
ノースポイントの陥落 in 1443 Efendi
12th Sep 2003

新フレストル派の影響を斟酌する第2日目。今日はスノーダルとその時代について考えて見ます。

まず、スノーダルは『ジェナーテラ・ブック』にある通り、属州イースヴァルの州都イーズが故郷 homeland である。これは出身地なのか、封土なのか? という問いはあまり意味がなく、フレストル改革派教会の下では階級は世襲されたのであるから、彼はイースヴァル公領 the Principality of Easeval の公爵 Prince だったのであろう。
地図を見れば分かるとおり、イースヴァルはロスカルムの北辺にあってタストラルと境を接する。混沌の住処であるダリス湿地を迂回してタストラルを経て、さらに当時はない戦争王国領を抜ければ、パーフェイないしサウスバンクに達する。
1443年、“イタチ将軍”黒フラルフ Black Hralf the Weasel はこの道を逆に通って、スノーダルと決戦したに違いない。

※ Black Hralf the Weasel について、イタチ族の“黒き”フラルフと訳す説もある。実際、タストラルは http://www.ttrotsky.pwp.blueyonder.co.uk/hsunchen/hsunchen.gif で「その他のスンチェンの居住地」とされ、アナグマ、フクロウ、ヤマアラシ、スカンクの諸族が住んでいるらしい。これらマイナーな種族の中にイタチもいる、あるいはイタチはスカンクの別称である、という可能性もある。だが、文法的には Black Hralf と the Weasel は同格であり、もしイタチ族出身ならば Black Hralf of the Weasels とすべきところであろう。やはりこれは二つ名であり、イタチのように狡猾な人、と解するべきだと思う。また、二つ名が the Weasel であるから、Black は名前だろう。だが、彼がフラルフ家のブラックであると言うよりも、兄弟か職場(軍団)で同名のフラルフがいて、彼の方が色が黒いので「黒い方のフラルフ」と呼ばれていると考えた方が説得力がある。
彼の色の黒さは、生まれつきの地黒かもしれないが、標準的なフロネラ人よりは色が黒いであろう山地に住むゼイヤラン人ではないか、とも思われる。

黒フラルフが率いた軍がタストラルに住むスンチェン族から成るのか、それともジャニューブ諸都市やジョナーテラなどの東フロネラの連合軍なのかは分からない。だが、黒フラルフの名前の解釈に加え、ロスカルムに隣接するスンチェン軍はロスカルム側も警戒してこれに負けないだけの兵力を置いているだろうから、スノーダルが敗れた、という結果から考えてそのような尋常な敵ではなかった、と思われる。つまり、東フロネラ連合の大軍であったと考える。
対するイースヴァル駐屯軍は、属州の規模からいって5,000人前後。増援を加えても10,000人前後だったのではないか? スノーダルは篭城戦を選んだだろう。イーズ城が堅城であることは容易に想像できる。長期戦になれば、敵の大軍に疫病が蔓延による瓦解も期待できる。

このとき、なぜ黒フラルフは堅城と分かっているイーズを攻めたのか? 同じ苦労するなら、ノースポイントを突くべきだろうし、それができるだけの船はジャニューブ諸都市は持っている。歴史上に例を求めるなら、第4次十字軍がバルカン半島を歩いてわたらず、直接コンスタンティノープルを突いたように。
ソッグの協力を得られなかったのだろうか? だが、ソッグがロスカルムに付いて何の得があろう? むしろ、大破門が意図的に行われたのなら、これによって大損害を蒙ったソッグは、このときロスカルムに恨みに思われる所業を働いたように思われる。

黒フラルフは別働隊で、ソッグ海軍を含む大船団はやはり直接ノースポイントに殺到したのではないか?
そして、窮状を打開できないロスカルム王はスノーダルに救援を要請する。おそらく黒フラルフと互角以上の戦いを展開していたスノーダルは、黒フラルフと有利な休戦協定を結び、イーズ城を放棄して王都へ向かおうとする。これを、“イタチ”と仇名される黒フラルフは協定を一方的に破棄して、背後から襲い掛かり、スノーダル軍を敗退させる。
ついに救援は得られず、ロスカルム王も降伏し、かくしてロスカルムは異教徒に征服される…。

1483年にロスカルムに帰ってきたスノーダルは、蛮族と造反者を一掃したそうですが、40年も蛮族が居座っていたというのだから、やはりこのときロスカルムは征服されたのでしょう。

 
15世紀のフロネラ諸勢力 Efendi, Zeb
12th - 22nd Sep 2003

ノースポイントが陥落し、北ロスカルムが征服されたとしても、南ロスカルムは残ったかもしれない。でもやはり、オズール湾の制海権は敵の手にあったため、ロスカルム王はノースポイントから脱出することあたわず(魔術的な逃走も、魔術的な手段で妨害されたと考えます)、虜囚となったか、処刑されたか、陥落時に戦死したか、いずれにしてもこの時までの王朝は絶えたと思われます。他の地に王族はいなかったのか? 公爵をはじめとする貴族が世襲であったなら、貴族の独立性は高く、ロスカルム王といえど、ノーランズ公爵といって差し支えない権限であったろうと考えられ、その可能性は低かったように思われます。とくに、1483年にスノーダルが帰ったとき、彼が打倒したのは蛮族だけではなく、造反者もそうです。この造反者とは、ロスカルム王を見捨てて蛮族の新政権に忠誠を誓った貴族たちでしょう。
スノーダルが王位に就いたのがいつなのか、明言はありません。が、王位に就いたにしろ実力者にとどまったにしろ、彼がロスカルムの実権を握ったのは1483年以降です。それ以前はグローランサにいなかったのだから。彼が実権を握るに際して、ロスカルムに忠誠を誓いきれなかった貴族を非難したのは当然で、これだけでも彼の相対的な発言力は貴族勢力に勝ったでしょう。

南ロスカルムについては、やはり抵抗を続けたのだろうと思われます。というのも、この15世紀の蛮族勢力の優位はロスカルムのみに起こったのではなく、1480年頃、東フロネラ各地で自立勢力であるマルキオン教徒男爵領が襲撃され、男爵が追放されたことが報告されています。
フレストル改革派教会の総本山がどこであったかは分かりませんが、サウスポイントが重要な拠点であったことは明らかで、蛮族勢力がこれを放置するとは考えられません。
もし、蛮族勢力がサウスポイントを占領し、教会勢力を駆逐していたとするなら、スノーダル朝ロスカルム王国において、新フレストル派の総本山はノースポイントに置かれ、王権の強い支配下にあっただろうと思われます。いま見るように、サウスポイントが独立した強い権限を誇っているのは、スノーダル王朝の成立に功績があったからだろうし、サウスポイントがスノーダルを助けたのなら、サウスポイントは彼の帰還まで生き残っていたはずです。
南の方が、古くからセシュネラの影響を強く受け、また気候がより温暖であるためマルキオン教徒人口が多かったことが要因の一つでしょう。

このフロネラにおける一連の反マルキオン教徒運動下において、ジョナーテラ王国はどのように係わったのか? ジャニューブ川諸都市連合がイデオロギーにのみ基づいて二正面作戦を敢行するようであったら、このような偉業は成し遂げられなかっただろうし、ソッグも支援しなかったでしょう。
きっと、南方教会系の系譜にあるジョナーテラ王国はロスカルムを滅ぼしてフロネラのマルキオン教徒を主導する地位に就こうと思ったのではないか?
彼らが、互いにロスカルムを南北で分けようという合意に達していたのか、それともロスカルムが滅んだ時点で相手の背後を突いてやろうと思っていたのか、それは分からないけれど、仮に合意があったとしても、衝突は避けられなかっただろうけど。いったん長期の戦争が始まると、増加した傭兵そのものが不安定要因になるから。

この時期、反マルキオン教徒運動が盛り上がった背景には、もう一つのマルキオン教国家、カルマニアの動向があると思う。
15世紀のペローリアはシェン・セリレスの災厄に見舞われた時代であった。1375年、ペント軍の侵入、皇帝の逃亡。1391年、皇帝の帰還。1409年、グローラインの完成。1435年、ダゴーリ・インカース、ルナーに宣戦。1449年、シェン、皇帝を破る。1450年、アロリアン、帝国より離反。1460年、皇帝、シェンを倒し、国土を回復。1464年、ホン・イール、ペント軍を追撃。講和成立。
まさに、1460年まで情勢は確定せず、カルマニアは動くに動けない状況だったろう。それが一段落着いて、西に目を転じると離反したアロリアンを含む東フロネラが動揺している。
スノーダルさえ駆逐した精強な蛮族軍がサウスポイントを攻めあぐねた理由のもう一つは、カルマニアに対する防衛にあったろうと思われる。

ノースポイントの陥落に多大な功績があったと思われるソッグだが、これもよく分からない勢力である。そもそも可動式巨大造船所であるソッグが、ジャニューブ川河口のような辺鄙な場所にいるのはなぜか?
ソッグの住民、ウェアタグ人は大閉鎖の影響を受けなかったようだが、そうであれば彼らの商品の価値は計り知れない。彼らしか入手できない東方諸島やパマールテラの諸物価、香辛料、砂糖、象牙など。また、クラロレラの磁器や絹も、ペローリア渡りのものより少し安くするだけでよく売れる。だが、売るのはいいとして、フロネラには多分それほど購買力はない。ソッグ市が動かせるなら、スアム・チョウやコラリンソール湾に置いた方がよほど気が利いてる。タニアー川の河口でもよい。こういうウェアタグ人の都市が複数あって、ソッグはフロネラ支店、というなら分かるのだが。
ウェアタグ人がフロネラを選んだ理由は何だろう?
一つには、フロネラの高くて硬い木が船材に適している、ということがあると思う。だが、熱帯の木は年輪がなくしまっていて、より船材に適している。フロネラの木が絶対ではない。もっとも、ソッグはジェナーテラ支店で、パマールテラには別にある、ということはあるかもしれないが。
無い頭をうんと絞って考えたもう一つの理由が、スラマックの流れ。定命界と英雄界の間には、定命界を還流するスラマックの流れというものがある。これを使うと通常の海域を航行するよりも早い、というなら、ジェナーテラの一番端にあってスラマックの流れが近いフロネラが選ばれた、ということになる。なぜ通常航行よりも早いのかといえば、一つには単に流れが速い(マガスタの渦から落ちる速さよりも速ければ、洗面器の中でぐるぐる手を回したように、海水は流れに引き寄せられてマガスタの渦に落ちない)。もう一つには英雄界に属するスラマックの流れは定命界より時間の流れが遅い(神界で時間が止まっているなら、英雄界は定命界の半分の速さで時間が流れているかもしれない)。以下はすべて空想で、ほとんど根拠がない。いずれにしても彼らはそこにいる。

コラリンソール湾については、ウェアタグ人の商売敵がいるからかもしれない。ルードックの主催する Seapolis である。ルードックが人間の商品をどうやって運ぶかは分からないが、泡でくるんだ商品をイルカに曳かせたり(速達)、鯨のお腹に搬入して運んだりすると楽しそう。
彼らは水銀を欲する、というが、わたしたち地上人が真珠や鼈甲といった海産の宝物を望むのと同様、彼らが陸産の宝物を望むなら、商売の幅はずっと広い。

ウェアタグ人がフロネラにいる理由はほとんど分からずじまいだが、彼らが商売敵でもないロスカルム王国を攻撃するには、彼らのマルキオン教徒への不信が根にあるのだろう。まだ実現していないが、近代セシュネラ王国は英雄戦争において、アーカット派、クィンポリク同盟、ウェアタグ人に包囲されることになっている。商売敵といえばクィンポリク同盟の方こそ危険であろうに。クィンポリク同盟は、この時点ではウェアタグ人はセシュネラより御しやすい、と判断したのだろう。あるいは、神知者の政治的後継であるマルキオン教に基づく帝国を危険視する、ということだろうか?

[Zeb]
> 南の方が、古くからセシュネラの影響を強く受け、また気候がより温暖である
> ためマルキオン教徒人口が多かったことが要因の一つでしょう。

Peter Metcalph consider Southpoint = Iselwal, one of the Oldest Colonies of Danmalstan [Kingdom of Logic] in Genertela.

> 先に、北方教会と南方教会がヒーロークエストを抑制した、と述べましたが、
> ヒーロークエストがあるとき、これを達成した者が階級に囚われているだろう
> か? と思われます。あるいは、フレストル正教会が発見した第5階級とは、
> ヒーロークエスター階級のことではないのか?

これ以前のお考えには大体個人的にですが、同意します。公式でフォローされているかは保証の限りではありませんが。

> 北方教会と南方教会は、その後に発展した新フレストル派とロカール公教会の
> 特徴から見て、北方教会は階級間異動をある程度是認し、南方教会はほとんど
> 拒絶した、ように見えます。

個人的にはTrotsky氏の、神知者帝国以前の早くから南方と北方の教義の違いが見られた、というのは懐疑的なのですが、あくまで個人的な意見ですので。

> 彼は、貴族階級を魔術師階級の下に置く古い階級制度を持ち出して、教会を味
> 方につけ、貴族を抑制したのではないか? もちろん、セシュネラ王だけは魔
> 術師階級に優越することを認めさせたうえで。

この「彼」が誰を指しているのか確証はありませんが、(ガーラント?)彼の後でもセシュネラでは「異教徒」と「一神教徒」の争いは続きます。
King Savalの項を見て下さい。また、セシュネラが最終的に滅びたのは「蛇」と化したフロアラー王を遍歴騎士のHerjanが倒したことがきっかけだと言うのですから。

そういえば、今のSaint Pietro寺院の地下深くにはミトラ神の祭壇が残っているとか。

> こうしてベイリフェスとフレストル正教会が対決するようになったとき、ベイ
> リフェスがフレストル正教会を非難した根拠が、騎士階級の是認、であったの
> ではなかろうか?

騎士階級=ヒーロークエスター=神知者の図式をうまく強調することができたなら、良い宣伝になったでしょうね。
Gregはむしろ、見えざる神をどういう風に解釈しているかの教義についての論争の方をメインにしているみたいですけど。
あまりそういう教義問答が平民に関係を及ぼすこともないかもしれないし。

[Efendi]
> 魚人と人間の交易については個人的には生活環境の違いから、(儀式レベルを
> 除けば)少々懐疑的ですが、Seapolis も Sog Cityも「海の狼」によって襲わ
> れていることは示唆的ですね。

> the last great Waertagi Dragonship to berth at
> the dry-dock was wrecked by the Closing

というからには、やはり大閉鎖下ではウェアタグス人も封鎖されたのか。大竜艦としては最後で、別のタイプの船(大閉鎖下環境仕様)が新たに建造された、としたら、竜骨区の船乗りたちは陸にとどまっていなかったろうし。

「海の狼」については、ヴァイキングと同様、海賊であると同時に一大海商グループであったろうと思われ、ソッグ(やわたしの考えるところのシーポリス)は商売敵となるんでしょうね。

ま、ソッグが独占的な海上交易によって富み栄えてはいなかった、というのでインパクトは弱まりますが、ソッグを中心とするアケム地方はフロネラで一番富裕な地方であるので、ロスカルムの弱体化に乗じるだけの力はあったでしょう。
むしろ、ソッグが封鎖されていたとする方が、彼らがフロネラの政治に巻き込まれていく理由をより説明しうるかもしれない。

> これ以前のお考えには大体個人的にですが、同意します。

心強いです。「これ以前」は年代的に? それとも文章の前後的に?

> 個人的にはTrotsky氏の、神知者帝国以前の早くから南方と北方の教義の違い
> が見られた、というのは懐疑的なのですが、あくまで個人的な意見ですので。

あるいは単にミサで唱える祈祷がロスカルム語かセシュネラ語の違いだったりしてね。
当事者たちには重要な差異ですが。

> この「彼」が誰を指しているのか確証はありませんが、(ガーラント?)
> 彼の後でもセシュネラでは「異教徒」と「一神教徒」の争いは続きます。
> King Savalの項を見て下さい。また、セシュネラが最終的に滅びたのは 「蛇」
> と化したフロアラー王を遍歴騎士のHerjanが倒したことがきっかけだと言う
> のですから。

そう、ガーラントです。

うーん、南方教会の段階ではまだはっきりと異教を排斥していなかったかもですね。
王権の問題に絞った方がよさげ。

自分で分かってる論理の穴に、ガーラントの血統にヌララールがいて、彼がセシュネラ王に即位している、というのがあります。
ジルステラ教会、といいながら、総本山はセシュネラにあったのか? ジルステラに支持者が多いというだけで。

[Zeb]
http://www.glorantha.com/greg/seshnelanKings2.html
> > これ以前のお考えには大体個人的にですが、同意します。
> 心強いです。「これ以前」は年代的に? それとも文章の前後的に?

年代的に。これ以後、というのはガーラント以降の制度の変化についてですが、公式についてなにか言うには資料が不足しています。
社会変化に人的要因だけ考えて、魔的(超自然的)な要素を排除するのは、Efendi殿の現実の歴史に沿って考察した結果でしょうし、そうなると好き好きの問題になりますので。

> 自分で分かってる論理の穴に、ガーラントの血統にヌララールがいて、彼がセ
> シュネラ王に即位している、というのがあります。ジルステラ教会、といいな
> がら、総本山はセシュネラにあったのか? ジルステラに支持者が多いという
> だけで。

ジルステラはAbiding Bookが見つかるまで都市国家同士で紛争が続き、その後でもとても政治的に統合されているとは言えなかったと思います。(宗教では別にして。)

http://www.glorantha.com/greg/jrustela.html
それから暗黒連盟軍を追い払ったトリミールはヌララーの後裔で、彼の後に家系は断絶しますが、「炎の剣の王朝」の時代と呼ばれることが多いそうです。(神知者の紋章はこの王朝の紋章と同じく、燃える剣だったとか。)

[Efendi]
> ジルステラはAbiding Bookが見つかるまで都市国家同士で紛争が続き、その後
> でもとても政治的に統合されているとは言えなかったと思います。

ジルステラ、という地名が、ジルステラ派を信仰する者たちの地、という意味かもしれませんね。アメリカには新教の名を取った地名が多いですが。

> それから暗黒連盟軍を追い払ったトリミールはヌララーの後裔で、彼の後に家
> 系は断絶しますが、「炎の剣の王朝」の時代と呼ばれることが多いそうです。
> (神知者の紋章はこの王朝の紋章と同じく、燃える剣だったとか。)

皇帝の鷲のような、権力の象徴だったかもしれませんね。
そうすると、ジョナーテラは使ってるだろうし、フレストル正教会の影響で、ロスカルムも使ってるかもしれない。
死のルーンにこじつけられた十字架よりよほどいい。

 
ソッグ市の成立 Efendi, Zeb
15 - 19th Sep 2003

The Neliomi became the Waertagi's own sea. One time a grandson of
Waertag needed drydocks to repair his fleet of city ships. He contracted
this to a guild of Brithini sorcerers and gave them the spirit of
Ladaral as raw materials and payment.

[かくて]ネレオミの海はウェアタグス人の海となった。あるときウェアタグの孫の一人は、彼らの都邑艦艦隊を修繕するための乾ドックがあればこの上ない、と気づいた。彼はブリソス魔術師協会にこの件を依頼し、材料費と建築費の代償としてラダーラル Ladarak の精霊を彼らに贈った。

Using various parts of the spirit, the wizards raised an isle and
built there a massive drydock. To watch over the drydocks, they
built a citadel with brazen walls and imprisoned the rest of
Ladaral within them. The walls became red-hot from the presence
of the god and they still glow today.

この精霊のさまざまな部分を使いながら、魔術師たちは島を隆起させ、その上に巨大乾ドックを建てた。またこの乾ドックを見張らせるために、彼らは真鍮の壁で内壁を設け、この中にラダーラルの残った部分を閉じ込めた。この壁は[異教の]神[、すなわち大精霊]が宿るゆえに赤熱し、いまなお輝いている。

The Waertagi consecrated the island to their patron diety,
Sogalotha, and the City was baptized Sogolotha Mambrola. Today
, because of the marshiness of the island amidst the flood,
most people simply called it Sog City.

件の島はウェアタグス人の守護神 [patron diety -> deity?] ソガロッハ Sogalotha に奉献され、ソガロッハ・マンブロラ Sogalotha Mambrola と名付けられた。今日では、大潮には海中に取り残される湿原の島ゆえに、水浸しの街 [Sog City] と多くの人が呼ぶ。

http://www.btinternet.com/~Nick_Brooke/sog/some-background.htm

In 922 ST, the last great Waertagi Dragonship to berth at
the dry-dock was wrecked by the Closing and the thousands
of crew were marooned in Sog. Unlike the ancient ancestors
of the original Sogolothans, these Waertagi had a somewhat
bluer hue to their skin; their descendants, the "blues",
now predominate in the Dragonbone Quarter around the
relics of their destroyed vessel.

922年、最後のウェアタグス大竜艦がかの乾ドックに停泊せんと航行してきたところ、大閉鎖によって難破し、何千という船乗りたちがソッグに取り残された。[彼らは]もはやソガロッハの末裔のようには見えず、その肌はやや青みがかっているだけだった。彼らは「蒼き民」と称し、[ソッグ市内の]竜骨区を牛耳って今に至る。区の中心には[彼らの祖先の]難破船が奉られている。

※ dry-dock は「造船所」と訳したらダメですかね?
http://www.glorantha.com/greg/q-and-a/janube.html

[Zeb]
斜め読みですけど、良いと思います。
ちなみに精霊 Ladaral というのは、論理王国東北にあった山ですが、ザブールに打ち負かされました。この神話は、ペーランダの Visaru Daran(ロウドリル?)の神話に酷似しています。閉じ込められて都市をつくるくだりは Palace of Black Glass のことを思い出させますしね。(もしかすると全て同じ出来事を扱っているということも・・・・<神話的見方)

 
ノースポイントの勅令 Efendi
19th Sep 2003

1483年にロスカルムがスノーダル公の掌中に帰してから、新フレストル派の成立までにはまだ長い道のりがあります。
新フレストル派は階級の世襲を否定していることから、貴族などの既得権益者の支持を得ることはできません。また、階級間の移動の承認は、ブリソスの固定的階級制度こそ聖典に則った正しい社会制度であると信じる凡百の聖職者階級も支持しないでしょう。
新フレストル派の導入に魅力を感じるのは、従来の軍人階級と農奴階級の者たちです。とくに前者は、貴族の私兵に対抗できる軍事力を持っています。また、貴族や聖職者の中でも、旧ロスカルム王国、あるいは30年間の蛮族支配下のロスカルムにあって不遇を囲ってきた者はスノーダルを支持するでしょう。


スノーダルが兵士たちに絶大な人気があったことはほとんど疑いありません。兵士たちは自分を死なずに済ませてくれる強い将軍をこそ、望んでいるようです。
史実で、第二ポエニ戦争を戦ったハンニバルとスキピオは対照的な性格で知られています。前者は孤高、後者は親しみやすい。それぞれに魅力的な性格ですが、兵士たちは彼らの将軍の性格に惚れていたわけではないでしょう。二人はザマで決戦するまで戦場で見えることなく、互いに不敗を誇ってきました。が、これでハンニバルは敗れ、彼は捲土重来を図ってシリアに逃れますが、誰もついてきませんでした。

後のロスカルム王国では、騎士軍団制度が施行されます。この制度では、各属州に同じく3000の騎兵が駐屯することになっています。
が、なぜ各属州で同じ数なのでしょう? 属州によって経済力も戦略的重要度も異なるのに。
わたしは、この騎士団は各属州に象徴的にリンクされているだけで、実際にはノースポイントや国境付近に配され、国王に直属するものではないかと考えています。ローマの軍団と同様に。
そして、この騎士団の基となったのが、スノーダルの下にいて、蛮族や造反者たちと戦った兵士たちなのではないか、と考えます。

なお、新フレストル派の騎士階級はフレストル正教会の騎士階級とは違って、ヒーロークエストには関係ないように見えます。
新フレストル派の騎士階級は同時にロスカルム王国の騎士であって、さらにこの騎士が出世して最終的には国王にまでなります(。実際はあやしいが)。逆に言うと、ロスカルム王国の騎士に叙勲された者が新フレストル派の騎士階級になるのであって、新フレストル派の唱える、すべての階級の本分を理解し、さらに喜びを見出す者が騎士である、というのはご演目であって、ロスカルム王国の騎士登第試験(〈植物知識〉で60%の実力があることを示す; ただし、王国の官職には定数があり、試験はこれだけでは済みそうにない)に合格した者が騎士なのです。
このように、新フレストル派の階級制度はスノーダル朝ロスカルム王国の官僚制度と密接な関わりがあります。この意味で、外国人には新フレストル派はほとんど意味がありません。
スノーダルが騎士階級を創設したとき、彼は聖職者階級に優越し、かつ自分に従う階級を創るつもりだったのでしょう。それに関して、何者かがセシュネラにはそういう理念があるらしいことを助言したものと思われます。

貴族階級では、前に展開したように1443年以後の戦いが展開したのなら、北ロスカルムの領地を持つ貴族のほとんどが旧ロスカルム王国から造反して、蛮族の王に忠誠を誓ったもののと思われます。というのも、彼ら領主には彼らの郎党を養わなければならない義務があるからです。
北ロスカルムの貴族のうち、次男や三男に生まれて、自分の待遇に不満を持つ者たちは喜んでスノーダル軍に参加し、彼らの兄の没落を助けたでしょう。中には兄を助けた弟たちもいるとは思いますが、多くは自分がいることで家の血統は保たれる、と思ったに違いありません。

南ロスカルム諸侯は、おそらく自分の領地を守るためには果敢に戦ったでしょうが、スノーダルの召集には渋々で応じたことでしょう。
無論、権勢を握ったスノーダルにしても彼らを断罪することはできないでしょうから、彼らは領地を安堵されたでしょう。ですが、彼らは外様大名であり、スノーダル王朝にとっては危険な存在ですから、すきあらば領地の解体、取り潰し、という目に遭ったことと思います。

北ロスカルムでは、蛮族が一蹴された後、スノーダルの自由できるようになったでしょうが、功績のあった者に官職を与えても、ルナーのような世襲総督では新フレストル派の理念は実現できません。
北ロスカルムは新フレストル派の理念の実験場となって、多大な混乱に見舞われたものと推測します。


サウスポイントに立て篭もるフレストル改革派教会の聖職者たちは、頼るものはスノーダルのほか無く、彼の目指すところを知るまでは積極的にこれを支援したに違いありません。宗教的な大儀だけでなく、歴史上、多くの宗教には金が集まってきたことから推して、金銭的な援助もしたでしょう。
スノーダルの理念を知った後、彼らはスノーダルを破門できたでしょうか? 仮に彼を破門して、怒った彼がサウスポイントに攻めてきても、あえてスノーダルに敵する者がこのフロネラに残っていようとは思われません。サウスポイントは妥協したでしょう。ですが、いくつかの権利は放棄しなかったものと思われます。聖職者叙任権、宗教裁判権など。
スノーダルにしても、サウスポイントを断罪する権利はないし、やはり破門されることで正統性を失う愚は冒したくないでしょうから、ある程度で妥協せざるを得ないでしょう。
サウスポイントもまた、南ロスカルムの外様大名同様、隙を見て削り取られる対象になったと思います。

ここで、ゲーゼロンという人物がサウスポイントの状況を説明する一つの例証になります。
彼はスノーダル、ジグラット、そして今上のグンドレケンと代々のロスカルム王に師事してきた偉大な魔術師ですが(天海みたいだ)、その彼がサウスポイント大司教ではない、ということです。
ロスカルムでは、政治のノースポイントと宗教のサウスポイントで権力が二重構造になっているようです。

圧倒的な軍事力を背景に、北ロスカルムを牛耳るに至ったスノーダルは、果たしてロスカルム王に即位したでしょうか?
わたしは、即位していないものと想像します。
彼が王位に就いて、しかも自分の息子を後継者としたならば、フレストル改革派教会の論客たちはここぞとばかりに新フレストル派の理念の欠点を攻撃したでしょう。
おそらく彼は、執政官なり摂政なり、独裁的な権限をふるえる官職には就いたでしょうが、ついに無冠のままこの世からなくなり、ジグラットのために王冠を取っておいたものと思われます。

ただ、彼は旧ロスカルム王家の娘は捜索して、これを妻に、ジグラットを生ませたと思います。
21世紀の今日でも、政治家に血統が求められるのですから、世襲が是認されていた15世紀ロスカルムではこれは必要な措置だったと思われます。

なお、ジグラットが旧王家の血を引くことは、彼の没年からも明らかだと思われます。ジグラットが没したのが1559年。もし、彼がスノーダルのイースヴァル公時代の息子であれば、彼は116歳以上、ということになります。
一方、彼がスノーダル帰還後の息子であれば、最高でも76歳。
スノーダルも帰還時の1483年には内憂外患で忙しく、また妻の捜索にも時間がかかったであろうことから(、王統を引き、かつ子を産むに適した年齢であり、なお美しければ申し分ない、という願いを託された部下は大変だったでしょう…)、ゆっくりと子作りに励むにはなお数年を要したろう、と思われます。
スノーダルの年齢に関しては、英雄界滞在時の時間はあまり斟酌しなくてよいように思われます。(英雄界=桃源郷説; いっそ、仙界の方が優れた訳か?)


また、スノーダル自身は新フレストル派の創設に手を染めたか、という問題に関しては、これもやはりなかったろうと思います。側近に漏らしたりはしたでしょうが。
スノーダルは自分が大破門を引き起こすことを知っているのですから、あえて内憂外患のあるこの時期に革命を引き起こそうとせず、これは次代にまわしたものと思われます。


かくて、スノーダルはロスカルムを救うべくアルティネへ旅立つ。
後の人はロスカルムを救った英雄を偲んで、彼の墓を参詣するイーズ詣が起こる。これは、江戸時代の日光参りのように、私的なものと公的なものがあって、スノーダルの生日か旅立ちの日、ないし勝利の日の中から大規模な集団が詣でるにふさわしい日を選んで(おそらく、夏であろう勝利の日)、彼の聖日とし、公的な参詣が行われているのだろう。


スノーダルの旅立ちとともに、なおローティーンの彼の息子、ジグラットがロスカルム聖王 High King of Loskalm に即位します。このお膳立てをしたのは、スノーダルから摂政の地位を受け継いだであろうゲーゼロンであったと思われます。ちょうど、ルイ14世の幼少期の政権を引き継いだマザランのように。

ルイ14世を引き合いに出すならば、彼の母后アンヌ・ドートリッシュが摂政であったように、ジグラットの母后が政治的発言力を持った可能性があります。
ですが、それはスノーダルも予測するところで、旧王族に実権を渡しては何にもならないので、ジグラットの母后のみを排斥する法律は立てられないでしょうから、政権に母后が口を出すことを禁じる法律を立てたものと思われます。

なお、ジグラットの大層な称号は、王に王たる者、という意味ですが、これは以後のロスカルム王が強力な中央集権を持つことで、旧ロスカルム王に優越する、またそのことで諸侯に優越する、という意味(というかこの時点では願い)がこめられているものと思われます。

ジグラットが即位して、すぐにシンディクス大破門という未曾有の事態がロスカルムを襲います。多くの人が直前のスノーダルの出奔と関連付けたでしょうが、これが吉事か凶事かは判断できなかったでしょう。というかむしろ、明らかに禍々しい出来事です。

ロスカルムは一つの「ボディー」として他から切り離されますが、それでもなお国内にはスノーダルの専横を忌々しく思っていた輩が数多くいたでしょう。これらがなお弱体な新政権を攻撃することは疑いありません。
もちろんスノーダルはこのことも予想していて、彼がアルティネ行を決意したときから、なお処刑されていなかった造反者、有力な外国人、隙のある南ロスカルム諸侯およびフレストル改革派教会の聖職者たちは、ことごとく処刑ないし追放されて、スノーダル治世の末期はロスカルムに粛清の嵐が吹き荒れたものと想像します。
それでも、この粛清を免れた者はなお多かったでしょう。

さらに、民衆は不安におののき、スノーダルの直属軍も彼らの敬愛する将軍を失って消沈し、外敵がないとは言え、この時期のゲーゼロン政権の苦闘は察するに余りあります。


ゲーゼロン政権がもっとも怖れるのは総決起で、それ以下の個々の蜂起は、各個撃破されていったでしょう。造反者たちの水面下の動きを察知するのに役立つのは、騎士ではなく、スパイです。彼はマザランというよりはリシュリューのように、王国中にスパイ網をめぐらして、総決起に備えたことでしょう。無論、この準備はスノーダル在職中になされたでしょう。

してみると、スノーダルは帰還から再旅立ちまで、27年間もかかったわけですが、この間に彼は、内観外憂の鎮圧、嫁探しと子作り、粛清とスパイ網の準備、と精力的に働いていたようです。また、新フレストル派の理念作りにも時間をとられたでしょう。


ゲーゼロンは、新王朝の危機に対して、陰謀と苛烈な弾圧で臨まざるを得ず、相当嫌われたことでしょう。ジグラットが“賢王”と評されるのは、あまりにひどいゲーゼロンと比較してのことかもしれません。

こういう新秩序の確立にはどのくらいの時間がかかるのか?
フランスでは、1643年のルイ14世の即位から、1653年のフロンドの乱の鎮圧まで10年。
オーストリアでは、1740年のマリア=テレジアの即位から、1748年のアーヘンの和約まで8年。
トルコでは、1617年のムスタファ1世の即位から、1622年の重祚(再即位)まで5年。
インドでは、1540年のフマーユーン退位から、1554年のデリー帰還まで14年。
割と、権威の再確立に失敗した例が多く、史例が少ないのですが、まず10年というところかと思います。

新王朝の権威が確立した時点で、摂政ゲーゼロンが王国に混乱を招いた責任を取って辞職し、成人したジグラットが親政を開始する、おそらくそんな結末を迎えたろうと思います。


親政を開始したジグラットは、辛うじて生き残った造反者たちを寛恕し、秩序を再建したでしょう。
この頃には、よほどうまく立ち回った者を除いて、南ロスカルム諸侯の大半は没落し、とくに属州規模の領地を治めていた公爵は意図的にことごとく取り潰されたものと思われます。大坂の役のように。
フレストル改革派教会そのものは、なお断罪し得なかったでしょうが、有力な聖職者の多くが被告席に着かされたことでしょう。

全ロスカルムがジグラット王にひれ伏す中で、新フレストル派の理念を述べた勅令が発布されたのかもしれません。
その中で、4階級制であっても造反者や犯罪者は階級の埒外に置かれたでしょうが、その者たちを許して農奴階級に組み込む、という条文は、彼らに王の慈悲を感じさせたでしょう。
元より軍人階級や農奴階級にとっては昇進の道が開かれ、この時点でジグラット王以外になお権勢を保つ者はかなりの少数派でしょうから、かれらも反抗しえず、ジグラット王の勅令はほぼ万人に受け入れられたことと思われます。

なお、この勅令、仮にノースポイントの勅令は、1510年前後に発布されたものと考えます。

[Zeb]
> スノーダルの年齢に関しては、英雄界滞在時の時間はあまり斟酌しなくてよい
> ように思われます。

ジェナーテラブックの原文にもそのあたりのことが色々書かれていますよ。

> ただ、彼は旧ロスカルム王家の娘は捜索して、これを妻に、ジグラットを生ま
> せたと思います。

これは間違いか、公式設定を逸脱しています。
シグラットはアルティネー生まれなので義理の母とはうまくいかなかったかもしれません。(というか、私なら間違いなく意地悪で非道なまま母にするでしょう(笑)。)

 
書きかけの神話 Efendi
9th Sep 2003

フレストル以前

 見えざる神は、最初にいまはブリソス島と呼ばれる地に5人の人間を置き、1人目には鋤と種と忍耐、2人目には斧と盾と勇気、3人目には杓と筆と公正さ、4人目には尺がねと天秤と知恵、5人目には剣と馬と喜びを、そして5人それぞれに家と女を与えた。初めて創られた人々は被造物である自分の分際をよく弁えており、よく神の御言葉に従った。ために、人々は死ぬことがなかった。

 人々は死なぬまま、あらゆるものが満ち溢れており子どもは次々に生まれたので、やがてブリソス島は手狭になってきた。あとから生まれる子どもたちは次第に取り分が少なくなっていき、彼らは先に生まれた人々を妬んだ。先に生まれた者はあとに生まれた者を疑った。このようにして人々が神の御言葉を忘れつつあったさ中、初めて人が死んだ。隣人の死がほんの小さな利益を人々にもたらした。人々は隣人の死を望むようになり、大いなる利益をもたらす神の御言葉をほとんど省みなくなった。

 ひどい混乱がブリソス島を覆った。神は戒めと希望を世に放った。混沌と、マルキオンである。麦が立ち枯れ、子どもたちが泣き止まぬ寒くて長い夜、マルキオンはよく人々を導いた。また、彼は魚人の秘密を奪い、船を人々に与えた。マルキオンは殖民団を組織し、より広い土地へ人々を送った。後に、ロスカルムやセシュネラと呼ばれる土地である。
 新しい土地に移った人々は、そこに神から光を与えられなかった者たちを発見した。人々は彼らを哀れみ、神の御言葉を教え、服を与えた。彼らは喜んで殖民団に従い、協力してさまざまな脅威に当った。


フレストルの啓示

 長い闘争の末、ついに神は人間をお赦しになり、世に光を戻した。神は試練を潜り抜けた人類が次の段階へ移るに足るものであることをお認めになり、新たな契約を結ぶことを欲せられた。
 神はこの契約の取り交わしにはセシュネラの王子、フレストルがふさわしいと思され、彼の夢で啓示を示された。フレストルははじめ、この夢を恐れたが、やがて神の御意思を理解し、積極的にこの新しい啓示を人々に伝えてまわった。
 この新しい契約において、人類ははじめて「慰めの野」へ入ることが許され、死は単なる消失から、「慰めの野」へと至る道程となった。これまでの無意味な地上での生は、自らを「慰めの野」へ入るにふさわしい存在へと高めるための試練の意味を帯びるようになった。
 新大陸の人々は、フレストルの言っていることがすぐに真実であると分かった。これまでに混沌との戦いの中で無意味な死を何度も見てきたからだ。一方、ブリソス島の人々はフレストルの言うことを信じられなかった。彼らは比較的安全に氷の時代をやり過ごしたからだ。かくて、フレストルが伝道し始めたときから、すでに地上で富める者には「慰めの野」の門は狭くなった。



真理が打ち勝って、世に光を取り戻したとき、かつて殖民団に服属した原住民の一部が、恩知らずにももう用はないとばかりに植民地を抜け出して、これを攻撃した。