エミーネ、恐怖に憑り付かれるの巻
Emine Be Possessed with the Terror
Prax, 40th - 41st Earth 1622 S.T.

消えない傷跡

 水にたゆたっていたはずなのに、気がつくと私は固い大地の上ににうつ伏せになっていました。涙で滲む眼に太陽の暖かい光が差し込んできたのを感知して、首をもたげます。

ふっ、ふふふ…。イェルムはんや。」

なぜでしょう? 太陽の光を浴びてこんなにほっとするのは。私は何とはなしに太陽を眺めていました。しばらくすると、手の指先からかすかに痛みが伝わってきました。何だろうと思って手を目の前にかざすと、すべての爪の間に砂が詰まって内出血を起こしていました。私は痛みも感じず大地に爪を立てていたようです。その異常な行動と、今まで指先に痛覚がなかったことに不安を感じました。とりあえず起き上がって中腰になり、爪の間の砂を払って、傷口を舐めようと口を開くと、鼻の下と口の周りがぱりぱりします。何だろう、と舌先で口の周りを舐めてみると、酸っぱい味がしました。先ほどまで私の頭があったところを見下ろすと、砂にまぎれて嘔吐物が広がっていました。

あて、飲みすぎて正体を失うたんやろか?」

医療鞄からハッカの葉を取り出そう、と腰を下ろすと、私の下帯が濡れていることに気付きました。

はぁ…、下帯、繰上げな…。」

立ち上がってポンチョをまくって顎で留め、ズボンを下ろして、下帯の紐を解きました。エスロリアの下帯は2キュビト(1)ほどの一重織りで慎むべきところを覆って腰の上で紐で留め、余った部分をお尻のほうに垂らしておく、というものです。汚してしまったときにはその部分を切り取って、余った部分を新たにあてがいます。私もそのようにして、汚れた布は、地面を蹴ってつくった穴に埋めました。そんなことをしながら、私はいまの自分の惨めさに思い至らずにはいられませんでした。

エスロリアの自営農民の娘が、いまは世界の果て(2)で下帯を汚してる…。ふっ、ふふふ…。お母はん…。」

私はまたしゃがみ込んで、乾いた涙がこびりついたまぶたを再び潤わせました。泣きながらも私は自分の意外な心情に驚きました。お母さん、か。母に救いを求めるなど、何年ぶりのことでしょう。母なら、いまの私を見て何て言うでしょうか?

そうやね、お母はん。」

あの母ならば言うでしょう、なに泣いとんねん、泣いとる暇があったら、自分がいまできること、いますべきことを考えんかい、と。まず、私にはいま何ができる? 私は看護婦。薬草で人を癒すことができます。もちろん、自分自身も。そう、私は自分で自分を癒すことができる。私は医療鞄を探しました。が、何ということでしょう、いつも私の肩にかかっていた医療鞄がありません。では次にすべきことは?

はい、医療鞄を探します。」

私は立ち上がって医療鞄を探しに歩き出しました。

 とぼとぼと荒野を歩いていると、ほどなくして私は行き倒れを見つけました。もっとも、彼は行き倒れるにはちょっと肩がこりそうな姿勢です。お尻を突き出すような格好で地面に突っ伏し、両手で頭を抱えています。衣服はところどころ焦げ、肌が露出しています。私が近づいて、もし、と声をかけながら肩をたたくと、彼はびくりとして、いかにも恐る恐る振り返りました。そして、私を認めるや彼は私にがばっと抱きつきました。抱きつく彼の身体は小刻みに震えていました。訳は分かりませんが、彼もまた私と同じように何らかの恐怖に憑り付かれているようなのは察せられました。私では到底彼の身体を支え続けることはできないので、私は彼の頭をお腹の上で抱いたまま、ゆっくりと膝を曲げて座りました。そして、彼の背中を優しくたたきながら、エスロリアの民謡を口ずさみます。

知ってるよソラーナ、そなたの心を。
声には出さず 目ですらも そうとはわしに 言うてはくれぬ ことながら。
賢いおなごと 知ればこそ、そなたの心を 疑わぬ。
知られた恋なら 昔もいまも、不幸なことでは あるまいに。
なるほどソラーナ、そなたはいつか、鋼の心と 冷たい胸を持っていますと 応えしが…」
けれどそなたのつれない返事、浮名おそれの逃げ言葉との
あいだにのぞく 真っ白き 着物の端が わしに希望を 見せるらしい。(4)

そう言いながら私が抱えていた男は、私のポンチョの端を捲り上げようとしたので、私は反射的に右膝を上げ、彼の顎を撃ちました。

げふっ!」
あ、ごめん。せやけど、もう顎以外は大丈夫そうやね。」
うん、ありがとう。何とお礼を言っていいやら…」
あんなぁ、礼はいいんやけど、膝の上でぼしょぼしょと喋られるとくすぐったいんやよ。膝枕はまだ貸しといたるから、仰向けになり。」
分かった。」

 仰向けになって見せた彼の顔は、まだ幾分青ざめてはいるけどだいぶいい感じでした。と、彼の顔を見ていると私は胸を突かれました。この人は誰かに、忘れてはいけないはずの誰かに似ているような気がします。ちょっと眉間に皺を寄せて考え込みましたが、そのような大事な人ならいずれ思い出すでしょう。私は頭を一つ振って不要な悩みを振り払い、この大事な人に似ているらしい彼の、額にかかる前髪をかき上げるようにして撫で続けました。

うわぁ…」
何?」
君は戦乙女(4)? 戦死した僕を迎えに来てくれたの?」
うん? う~ん、どうやろね。」
ていうか、戦乙女があんな下世話な民謡、歌ってるわけないか。」

私は股を開いて彼の頭を地面に落としました。が、この懲りない男は私の両腿を手で押さえて自分の頭を挟み、これも悪くない、とのたもうております。でも、私に怒りはなかったし、それどころか先ほどまでの不安感がこの男といる間は和らいでいるようなので、私もお尻を地面に落として、脚を伸ばし、両手も地面についてくつろぐことにしました。

兄さん、名前は?」
アルヨン。君は?」
エミーネ。さっきは何を怖がっとったのん?」
え? …、そうか。えぇと、何をだろう? よく覚えてない。」
さっきは“戦死した”なんて言うてはったけど、その戦ってた相手じゃないのん?」
そんなこと言ったかな。」
ま、無理には聞かんわ。おおかた、借金取りに追われてるか、昔、酷い捨て方をした女につけ狙われてるか…。」
うん、そんなところだよ。」
さよか。」
そういう君こそ何者なんだ? …と、あの件は置いておいて。くくっ、そうだ、こんな得体の知れない男を股のあいだにばざみごむでいる…」

私が彼の鼻を摘んでやったので、彼は最後までちゃんと喋れません。

あては看護婦やからね。溢れんばかりの慈悲の心が、アルヨンはんみたいなんでも放っておけへんのよ。」
がんごぶ? どごがらぎだんだ? でいうが、ばなからでをばなしでよ。」
はいはい。エスロリア、あ、故郷やのぅて? 2週間前にパヴィスから。」
なんだ、まるきり普通の娘じゃないか。」
戦乙女でなくてがっかり?」
いや、君が普通の娘で嬉しいよ。」
…。」
さてと、いつまでもこうしていたいところだけど、僕がこうやって生きているからにはそうはいかないね。エミーネ、ヤルトバーンとフィリシアの名は知ってるね?」
え? あ、はい。」
君がこうして僕とゆっくりしている、ということは君はまだ彼らを見つけていない、ということだな。彼らもさっきまでの僕みたいに、そこら辺で転がってると思うんだ。」
一緒でしたのん?」
そういうこと。そういう訳だから、2人を探しにいかない?」

もちろん私に否はありません。2人は立ち上がって、もう2人を探しに歩き出しました。程なくすると、私たちは一人がもう一人を抱え込むようにして座っている2つの人影を見つけました。近づくと、それがヤルトバーンとフィリシアであることが確認できました。ですが、どうしたことでしょう? 抱きすくめられた格好のフィリシアはよく分かりませんが、ヤルトバーンは剣も荷物も、鎧までも失くしているようです。ヤルトバーンは左腕でフィリシアを抱え、太陽を見つめながら右手の親指の爪を噛み、ぶつぶつと何かを呟いていました。声をかけようとした私ですが、彼のあまりの異様な姿にそれをためらってしまいました。そんな私の気配を察したのでしょう、彼の方が先に誰何の声をあげました。

エミーネやよ。それに、アルヨンいう男も一緒やで。」

と言いながら、私は彼の前に回り込みました。私の方に首を上げた彼の顔は、目が血走り、頬は緊張で張り、全体的に青ざめていました。私といい、アルヨンと名乗る男といい、ヤルトバーンといい、何か良くないことが私たちの身に起きたのはまず間違いないようです。一方フィリシアは俯き、小刻みに震えていました。

フィリシア、どないしはったん?」
どないって…、そうか、お前は覚えていないのか。そしてアルヨン、お前は何も伝えていない。」
無理に知ることもない、と思ってね。楽しいことじゃないし。」
目を背けていたら自然に解決すると思っているのか? こうなった以上、こいつだって今晩から毎夜毎夜、悪夢に怯えることになるんだぞ? 原因を知っていれば、それを克服しようという希望もわく。だが、何も知らぬまま恐怖に犯されていくとしたら、それはどれだけ救いのないことか。」
悪かった。僕が浅はかだったよ。でもね、正直言うと僕もよくは覚えていないんだ。」
そうか。俺は昨晩はついに一睡もできず、いまこの時もあの時に途切れなくつながったままだ。」
何を分からん話をごちゃごちゃと。フィリシアはどないしたん、と聞いとんねんで。」
フィリシアは、とてつもない恐怖に直面して心を閉ざしたようだ。何も見ず、何も聞かず、何も語らない。エミーネ、お前の薬草はこんな心の病も治すことができるか?」
やってみな分からんよ。もっともそれ以前に、あて、鞄を失くしてしもうたみたいなんや…。」
それなら俺が預かっている。ほら。」

そう言うと、ヤルトバーンは私に医療鞄を手渡しました。私は軽く中身を確認します。

エミーネ、お前はフィリシアのための薬を調合してくれ。俺はその間に、お前と俺たちとの間に起こったことを伝えよう。アルヨンも座れ。」

恐怖の具現

 私、フィリシアを抱えたヤルトバーン、アルヨンは輪になって座り、私は鞄から乳棒とすり鉢、そして狂気を癒すとされるハナウドの根を取り出して、これを擂り始めました。磁器がこすれる音がヤルトバーンを促します。

昨日、動作の風の日が我らがオーランスの聖日に当たることは承知していることと思う。かの神に仕える俺、フィリシア、そしてこのアルヨンはかりそめの聖域を描いて、その輪の中でかの神のいさおしを再演した。オズヴァルドと、もう一人アルヨンの連れは他の神を崇めているので輪の外にいた。」
はい、質問。」
何だ?」
アルヨンはんとはいつ合流しはったんどすか?」
あ、そうか。俺たちがカルマニア人に同行したあと、騎獣遊牧民の襲撃を受けて、お前を除く全員はカルマニア人と別れたよな。」
ぷっ、くくく…。“同行”やて。」
当たり前だ。俺たち風の民は、自由か、しからずんば死か、だ。いつ、どんなときでも他者に屈することはない。」
この真実を帝国が理解したら、帝国は僕たちをダック(5)やテルモル(6)のように根絶するしかないね。」
それでだ、」
(…無視したな。)」
その後、俺たちはパヴィスに向かって歩き出したんだが、しばらくして、俺たちはまた別のルナーの巡視隊を見つけたんだ。例の、カルマニア人たちと揉め事を起こしていたあの連中だ。奴らもパヴィスに帰るところだったんだろうな。だが、大したことのない奴らだと看て取ったから、むしろこちらから襲撃してやったよ。ただでさえ浮き足立ってた連中は、さらに背後からした奇妙な声にびびって退散しちまった。その声の主は猫で、それを踏んづけたのがこいつだったというわけさ。 」
僕は何年か前からこのヤルトバーンと仕事してて、今回も一緒だったんけど、ひょんなことで離れ離れになってね。一人で困っているところをインパラ族のピリューにに助けてもらったんだけど、彼が、助けた礼にあるものを見つけるのを手伝え、と言ってきて、彼と同行してたんだ。で、その途上、剣戟の音がするんで駆けつけてみたら、ヤルトバーンたちがルナー巡視隊をいじめてるのに出くわしたわけ。猫はオーランスの御使いだからね(7)。きっとかの神が僕の足元にこれを置いて、ヤルトバーンたちを助けたんじゃないかな。」
いや、かの神が遣わしたのはお前自身だと思うぞ。フィリシアの悪霊を受け入れられるのはお前だけだからな。」
フィリシアの悪霊?」
ああ。フィリシア、お前に会ったときからずっと悪夢にうなされていただろう? その悪夢の元凶だ。俺たちはかの神の恩寵によってそれぞれ精霊に関わることができるようになったんだが、」
具体的にどういうこと?」
具体的には、フィリシアは精霊を肉眼で視ることができ、俺は精霊を掴むことができ、アルヨンは精霊を自分の中に容れておくことができる。アルヨンたちと合流して初めての野営のとき、フィリシアが悪夢にうなされているのをアルヨンが不審がって俺をたたき起こしたんだが、寝ぼけてた俺はフィリシアを取り囲むよくない気配を“掴み取って”しまったんだ。俺は慌てることなくそれをアルヨンに放り込んだ。」
ひっどーい。」
そう言うなよ。突然、自分の腕によくない気配が絡みついたんだぞ?」
うん、やっぱり“慌てることなく”じゃなくて、“慌てて”僕にそれを放り込んだんだね。」
経過はともかく、フィリシアを救うにはこうするしかなかった、とは思わないか?」
まぁね。正直言って、代わりに僕も船酔いと二日酔いを足したような最悪の気分を味わうことになったんだけど、仕方ないよね。」
とにかく、悪霊はアルヨンに移ったまま、俺たちは次の朝を迎えた。オーランスの聖日だ。俺、フィリシア、アルヨンは、荷物をオズヴァルドに預け、かりそめの聖域に入ってかの神のいさおしの再演をした。ちなみに、フィリシアは嵐の王で、こいつが儀式を取り仕切っていたんだが、こいつが引き寄せた四方の風は聖域の輪を包み込み、辺りの砂は舞い上げられて壁を作り、俺たちと現実世界を引き離した。そして…、そして…、」

ヤルトバーンは目に見えてがたがたと震えだしました。

ヤルトバーン、大丈夫?」

ヤルトバーンは歯をむき出してにやりと笑い、大丈夫だ、と答えました。似合わない上に可愛くない。私はちょっと前から擂り上がっていた薬を彼に差し出します。

ヤルトバーン、これを飲み。」
いや、まずフィリシアに飲ませてやってくれ。」

私は首を横に振ります。

薬はこれしかあらへん。ハナウド(8)は珍しい方の薬やから、パヴィスに戻っても入手できるとは限らへん。あんたはん、さっき言いはったな。自分はそのときのことをはっきり覚えてる、て。そんで、あてらはそのことに向かいあわなあかん、て。あんたはんが今のフィリシアみたいになってもうたら、あてらは終いや。飲んどくれやす。」
しかし…、その薬がそんなに貴重なものならなおのこと、ここでフィリシアに飲ませなければ、こいつは助からないかもしれないじゃないか。」
言いにくいことやけど、多分、フィリシアはこないな小手先では治らへんと思う。あては左岸(9)の戦場で、月の狂気(10)に冒された兵士たちを何人も見たんやけど、ここまでひどいのは見たことあらへん。」
どう…、どうひどいと言うんだ?」
狂気に冒された者は、外見的にはまず、冷たく硬い表情をするのが普通でな。これは、死ぬかと思ぅた、なんて時にもなるから経験あると思うわ。次に、奇妙で不自然な姿勢や態度をとって、急に大声でわめきたてたり乱暴をはたらいたりする、いう段階がある。これは一見、かなり悪そうやけど、殴って気絶さすと治ることもある。最後に、外界から一切自分を遮断して痙攣する、いう段階がある。いまのフィリシアがそうやけど、フィリシアは他とは違うんやな…。ここまで痙攣が激しくなると、疲労と発熱で身体の方からセーブがかかって昏睡状態になるんやけど、フィリシアはそうはならん。昏睡に落ちることを許されず、恐怖に向かい合うんを強制されてるみたいや…。」
そんな! どうすりゃ助かるんだ、フィリシアは…。」
恐怖の元を取り除いて、患者にそれを認識させる、いうんが狂気を治すには何よりの方法なんやけどね。…その方法が採れれば、やけど。ごめんな、こないなことしか分からんで。」
つまり、俺はどうあっても“あれ”を葬らなければならない、というわけだな。」
…ヤルトバーン、専門家の意見は聞くべきだと思うよ。それに、恐怖の元が何であるか分からなければ、僕にも手伝いようがないじゃないか。」
…分かった。エミーネ、薬をもらう。」

ヤルトバーンは俯いて少しフィリシアを見つめましたが、次の瞬間には意を決して薬を一気に飲み干しました。あぁ、噛みながら飲んだ方が本当はいいのだけれど。そして彼は私たちに話を続けます。

さて、フィリシアの起こした風が儀式の輪の周りを駆け巡って砂の壁を築いたところまでは話したよな。その風はさらにアルヨンの口から黒い影を引きずり出したんだ。すると、この黒い影は辺りの砂を集めて徐々にその姿を現していった。そのとき、儀式はちょうど“大敵に立ち向かうオーランス”だった。奴は、悪霊でありながら、儀式の上ではオーランスが倒すべき大敵だったんだ。」
そう。フィリシアはこれを認めるや謳ったよね。
『汚れの汚れ、消えて失せろ、背を向けて疾く、立ち去るがいい。
おまえを斬るぞ、邪悪の邪悪、そらごとうそ泣き、聞く耳持たぬ。』
って。でも、奴さんの方はオーランスの敵として申し分なかったけど、僕らの方は役不足だったね。」
ああ、ひどい戦いだった。奴はついには小山のような大きさにまで膨れ上がったんだが、いくら斬り付けても斬った感じがしない。それどころか、奴に斬り込んだ剣の方が腐っていく。奴が触れた鎧も服も腐っていった。いよいよ俺たちが腐らせられる番、というときに、フィリシアがこれは影に過ぎず、その向こう側に本体があることに気付いたんだ。その本体までの距離は…、あの向こうの岩くらいまであってな、もう手遅れだと思った。そこにたどり着くまでに、間違いなく俺たちは死ぬ、と。」
でも、走るしかなかったんだよね。往生際の悪さが、僕ら風の民の天分だから。で、走ったその先で、僕は奴の暗黒の中に白いものを見つけたんだ。」
後から追いついた俺は、その鞄、お前の鞄だけどな、を見て、白い影がお前だと直感した。いまや、儀式の上ではお前はオーランスに救われるアーナールダ、そして俺こそがオーランスだった。俺は猛然と暗黒を掻き分け、お前の白い腕を掴み、お前をアルヨンに預けると、決然として再び暗黒に向き直った。そして、いよいよ俺は悪霊の本体に正面切って向かい合い、オーランスへの祈りとともに渾身の一撃を振り下ろした! …だが、それすらも未発に終わった。どういうことだ、とフィリシアのほうを振り返ると、あいつは何かを恐れるような顔をしていた。そして、それは地平の向こう側に立つ虚無の実在、そのこちら側の影だ、と告げた。言葉の意味はよく分からなかったが、そこには“何もない”ということは、すでに剣が俺に伝えていた。もはやこれまで、と悟った俺はすぐに撤退を叫んだ。」
だけど、そこはまさに奴さんの中心点だったんだよね。逃げる僕たちをそこかしこから“よくないもの”が撫でていく。よく捕まらなかったよね。」
ああ…。俺たちは走りに走った。もはや黒い影が覆わないところまできて、お前たちは2人とも倒れこんだ。だが、フィリシアだけは奇声を発しながら走り続けていた。俺は疲れた身体に鞭打って、あいつに追いつき、そしていまもまだ抱きすくめている。これが、昨日の出来事だ。」

 そして、ヤルトバーンは口を緘しました。私もアルヨンも何の質問も意見もせず、押し黙っています。彼の話は、私の中にあった断片的な恐ろしいイメージを縫い合わせて、一編の記憶にしました。3人は、プラックスの太陽が照りつける中、互いに何もないところを見つめて、そのまま数時間を過ごしました。


甘い朝食

 座ったままの私の前に、一匹の黒いバッタが飛び込んできました。バッタは私を見つめるや、煙のようになって拡散し、私を包み込みます。

いやーっ!」

と、私が叫ぶと、私の鼻の上に止まったバッタは、ぶーん、とどこかへ飛んでいきました。私の叫び声を聞いたヤルトバーンとアルヨンは、びくっと肩を震わせ、腰を浮かせました。

えへっ、ごめん。」
驚かせるなよ。」
ところで上官殿、この先、どないしはるのん?」
どない、と言ってもな…。」
パヴィスにいったん戻りましょうよ。ピリューたちに荷物を預けたままで、食料も水もないんだし。」
な、何やてぇ? なぁおい、兄さん、何をぼけぼけしとんねん。」
ぼけぼけって、お前なぁ。俺たちがあんな…。」
ん、そうやった。みなまで言わんといて。無いもんはしゃあないな。とっておきを出しますか!」

そう言うと、私は鞄から練り飴を取り出しました。

なんだ、この白い棒は。」
砂糖の塊やよ。」
砂糖?」
…はぁ。砂糖いぅんはな、南の国で採れる甘味の結晶や。」

私はナイフを取り出して、指先ほどの切片を4つ切り取って、1つずつみんなに渡しました。

なんだよ、これだけかよ。」
ヤルトバーン、砂糖が幾らするか知ってる?」
知らん。幾らだ?」
ノチェットでの卸価格で、1kg あたり銀貨60枚や。パヴィスやったら倍はするやろ。それにマージン 25% 加えたら、銀貨150枚、というところやな。あんたはんに手渡したくらいやったら、銅貨15枚やね。」
こ、こんなのがギンピー亭(11)の定食3食分だというのか?」
ま、舐めてみぃ。その価値はあるで。」

ヤルトバーンは恐る恐る舌先を出して、飴に付けました。すると、彼の目じりは見るからにどんどん下がっていきました。

どない?」
俺の不見識を謝る。世の中にかくも素晴らしい食べ物があるとはな…。」
フィリシアにも舐めさせたってよ。」
舐めさせるって?」
口移ししかないやろ。」
そ、そんな卑劣な真似ができるか。」
あ~あ、せっかくのチャンスやのに、しゃあないな。」

私は人差し指と中指に飴の切れ端を挟むと、それをフィリシアの口に突っ込みました。フィリシアは私の指を、赤ん坊が母乳を吸うように、熱心に吸っています。

あぁ、フィリシアもやっぱりお腹空いとったんやね。」

アルヨンはヤルトバーンの腕を肘で小突くと、彼になにやら小声で呟きました。

ねぇ、ヤルトバーン、これって…。」
あぁ、なんだかすごいな…。」

二度目の夜
さてと、パヴィスへ向かうんでっしゃろ?」
ああ。」
パヴィス、どっちか分からはるの?」
大体な。元々、お前とオズヴァルドは南西へ向かってきたんだろ? そして俺たちと出会った。ということは、パヴィスは北東にある、ということだ。」
はい、北東へ向かうの反対。こんな何もないところじゃ、まっすぐ歩いてるつもりでも、どんどん曲がってくよ、きっと。ましてパヴィスに着くまでにはまだ3日くらいかかると思う。北東を目指して、東寄りに向かえばよし。北寄りに向かったら、パヴィス街道にはぶつかるだろうけど、水を得るのに時間がかかるかもしれないね。でも、東を目指すんだったら、北東へ向かえば申し分なし。南東に向かっても、とりあえずゆりかご河の水を飲むことができる、と思うんだ。」
うん、一理あるな。よし、東へ向かおう。」
ちょっと待って。僕らがここを離れると、ピリューたちがここに着いたとき困ることになる。何か目印を残しておくべきじゃないかな?」
目印、といっても余分な布ひとつないぞ。」
石を積んでおけばいいんじゃない? そんな何週間も必要なわけじゃないんだし。」

 ということで、私たちは手ごろな石を集めて、膝ほどの高さに積み上げました。

アルヨンはん、目端が利くんやねぇ。」
ん? あぁ、前に僕がやってた仕事じゃ、こういうオリエンテーリングは基礎の基礎だったからね。」
どんな仕事してはったん?」
え? …えぇと。そうだ、“狩り”だよ、“狩り”。」
そうでっか。あ、ほなら、獣が出てきたら捕らえてんか? あてらの食事のために。」
ゔ…。そうだ、ほら、いまは弓が無いからちょっと無理っぽいよね。」
そうでっか。残念。」

 出発、という段になって、ヤルトバーンはずっと座り込んでいるフィリシアの脇に手を差し込み、ぐいと持ち上げました。すると、フィリシアは緩慢に立ち上がりました。そして、ヤルトバーンが手を引くと、彼女は歩き出しました。

よかった、フィリシア。ある程度動けるんやね。…せや、あてもやってみよう。はい、右手を頭の上に。左手をぶーらぶら、でバブーン(12)! って動かへん。」
遊ぶな。」

 かくして私たちはゆりかご河へ、願わくはパヴィスへと歩を進めるわけですが、フィリシアがこのような有様のため、行軍は非常にゆっくりしたものです。おかげで、ほとんど疲れを感じずには済んだのですが。

 太陽が南天を経巡ってしばらくして、ヤルトバーンは私たちの進む左手前方に土煙が立っているのを見つけました。ヤルトバーンは辺りをきょろきょろと見渡して、隠れるところを探しているようです。一方、土煙への注意を喚起された私は、その方向を見極めようとしていました。

どうやら、逸れて行ってくれるみたいやよ。」
何よりだ。だが、向こうがこちらを見つけることもありうる。とりあえず、あの潅木の陰に身を潜めよう。」

潅木の陰に隠れたヤルトバーンとアルヨンは、地に耳をつけ、枝葉の影から覗き見、連中の動向を見極めようとしています。私はフィリシアを抱え、片手で彼女の口を押さえていました。ヤルトバーンとアルヨンはやり過ごしたと判断したようで、立ち上がって膝の埃をはたきます。

まずいことになったな。」
何が? やり過ごしたやんか。」
お気楽だな。いいか? もし連中がルナーの巡視隊なら、いや、こんなパヴィスの周辺だから間違いなくそうなんだが、まず第一に、連中は馬上にあって俺たちより視野が広い。第二に、連中もプロだからその捜索能力は侮れない。第三に、連中はパヴィスを起点に動いているから、近づけば近づくほど遭遇する確率が高いうえに、俺たちには迂回する余裕がない。そして最後に…、」
最後に?」
俺たちは今回の旅で、かなりルナー巡視隊からの印象を悪くしてる。」
あははは。あの、猫にびびって逃げ出した連中に出会ったら、殺されるかもしれないね、口封じのために。」
いや、連中もそこまでしないとは思うが…(13)。とにかく、これからはさらに周囲を警戒して進もう。幸い、歩調もゆっくりなんだし。」

 そうして、ヤルトバーンは異様なほど周囲を警戒しながら歩き、半刻ほどして、左手方向の一点を指差しました。

ほらな。」
何を勝ち誇っとんねん。」

私にはまだ土煙すら見えませんが、苔の執念、ヤルトバーンにはそれが奇しくも“猫にびびって逃げ出したルナー巡視隊”であることまで見抜きました。

奇しくも、というほどのことじゃない。連中だってパヴィスを目指してるんだ。出会う確率は高いさ。」
でも、そうなると鉢合わせるのは必然。時間をずらすしかないんじゃないかな?」
仕方ない。夜まで身を隠そう。」

そのルナー巡視隊はまだまだずっと先にいたので、私たちには理想的な隠れ場所を見つける余裕がありました。これなら脚も伸ばせて、夜まで待ったとしても、かえって体力を回復させることもできそうです。

 日没までは2刻ほどありました。ともすれば嫌な記憶が蘇ってくるので、私たちは他愛もない無駄話に興じていましたが、互いに違うところで相づちを打ったりと、みんなが相手に聞かせるために話しているのではなく、自分が話すために話しているのは明らかでした。
 次第に、東の方からゼンザ(14)の衣が天蓋を覆うにつれて、私は心臓に締め付けられるような痛みを感じていきました。私は無意識にアルヨンの手を握っていたようです。それに気付いたのは、彼が彼の右手を握る私の手のさらに上に左手を重ねたときでした。

あ…、ごめんなさい。」
いや。僕も助かるよ、隣に君がいてくれて。夜が、怖い?」
うん、怖いわ。あの、もしよかったら、手をぎゅっとしててくれへん?」
了解。」
それと、肩も貸して。」
了解。」

私はアルヨンの肩にもたれかかって目を閉じました。アルヨンは右手で私の肩を抱き、左手を私が組んだ手の上に置いてくれました。私は緊張が解けて、はらはらと涙をこぼしました。

日が暮れるな。アルヨン、見張りの順番だが…。」
これこれ。」
ふぅ…、こういうときは女の身分がうらやましいな。」
確かに。ヤルトバーン、君が僕にもたれかかってきたら、僕は間違いなく肘で君のわき腹を打つね。」
お互い様だ。仕方ない、半刻だけ俺が見張っとく。そうしたら次は、お前が夜半まで見張れ。朝起きたとき、隣にお前がいなかったら、また事だからな。」
へぇ~、粋なところもあるんだね。」
当然だ。オーランスのごとくあれかし、さ。」

 しばらくすると、私は自分に支えがないことに気付きました。そのまま地面に横になりますが、地面も私を支えてくれません。ずぶりずぶりと、腰から泥沼と化した地面に沈んでいきます。もがけばもがくほど深みにはまっていき、とうとう口から泥が入ってきました。次の瞬間、私は

んぁー!」

と叫んで、振り回した腕は現実の地面に激しく打ち付けられました。私は痛む腕を口にやり、口中に溜まった胃液を押さえて岩陰へ走りました。

大丈夫かい?」
うわ…、アルヨンはん。」

 すでに、見張りはアルヨンに替わっていたようです。私は恥ずかしさのためばかりでなく、頭がくらくらして、へたり込みました。私は痙攣しているようでした。アルヨンは私の下に駆け寄ると、身を屈めて私に手を差し伸べましたが、私は手先も足先も動かすことがず、ただ歯を食いしばって彼を見上げるだけです。彼はとうとう私の手を取りました。が、次の瞬間、彼は何かに驚いて手を離し、私は尻餅をつきました。

ひひ、ひどい。」
ごめん。その、君の手があまりにも冷たかったから、驚いちゃったよ。」
だだ、だっこ。」

 アルヨンは私を抱っこして、私が胃液を吐いた場所から離してくれました。

大丈夫かい? 僕に何かできることはある?」
ささ、寒い。」

と応えて、私は彼の両腕を肩にかけ、彼をカーディガンのように引っかぶりました。アルヨンは小石を拾ってヤルトバーンに投げつけました。

ヤルトバーン、こういうわけだからちょっと早いけど見張りを替わってくれない?」
んがー!」
ほらほら、オーランスのごとく、だろ?」

 結局、私は朝まで寝入ることができず、蟲(15)がギチギチ鳴く音を聞きながら、赤い月とそれに照らされた赤く染まる岩叢山脈 [Rockwood Mts.] を眺めていました。赤い月が、太陽と違って中空の一点で留まったままでいるのを発見する頃、アルヨンは私の解いた髪に鼻をうずめて、寝息を立てていました。私は結局、岩叢山脈が東の方から黄色く染まり始めて、初めて安堵して眠ることができたようです。


降伏

 翌朝、私はかなり日が昇ってからようやく目を覚ましました。ですが、二日酔いの後のような最悪の目覚めです。

ヤルトバーン。エミーネ、起きたよ。」
まったく、いつまで寝てやがるんだか。」
何やて? 起こしはったらよかったやろが。」

言った次の瞬間には、私の寝ぼけた頭でも彼らがそうしなかった理由を悟ることができました。

ごめん。おかげさんで、よぅ寝れたよ。ありがとう。」
何よりだ。どうせ朝食もないことだし、すぐ出発するぞ。立て。」
うげ~、かったるぅ。」
お前の殊勝さは瞬き一つ分ももたないな。ま、俺はともかく、アルヨンにはよく礼を言っておけ。お前があいつの腕をずっと抱いてたおかげで、あいつは起きてから一刻(16)もたつが、ずっと身動きができなかったんだからな。嘘だと思うなら、あいつの袖を見てみろ。お前のよだれの痕が残ってるぞ。」
よ、よだれ…。あ、あの、アルヨンはん…。」
いや、気にしてないから大丈夫。ていうか、楽しんだ。君の寝言とか。」
ね、寝言まで…。あのぅ、あて、どんなこと言ぅてました?」
バラクヴァ、テル・カダユフ、トゥルンバ、ビュルビュル・ユヴァス、コンポスト…(17)、あと何だったかな? 一緒にノチェットなりに行く機会があったらご馳走してね。」
はい。はい、ご馳走させていただきますから、こんことは忘れてください。」

 恥ずかしさは気だるさを打ち払い、私たちは今日の道のりを進みました。2刻ほど歩くと、アルヨンは声を輝かせました。

見て! あそこ、光ってる。河だよ、きっと!」

さらに歩くと、私たちは水を耳で、そして次に鼻で感じられました。私たちは生きてパヴィスに還ることができそうです!
 と、喜びもつかの間、私たちを背後から呼ぶ声が聞こえます。

なぁ、やっぱり振り返らなきゃダメか?」
当たり前やないの。あの声、オズヴァルドに似てるで。」
そう思うなら、お前、振り返ろよ。」
小っさい男やな。ほな、いっせえのせ、で。」
分かった。いっせえのせ!」

振り返ると、私たちが懸念したような不吉な影はありませんでした。地平線上に大きいのと小さいの、2つの影がこちらに手を振っているのが見えます。目のいいアルヨンはそれが旧知のものだと確信して、ピリュー、と呼び返し、盛んに手を振っています。私とヤルトバーンもそれに倣って手を振りました。
 が、吉事は二つとつながらないようです。オズヴァルドとピリューという男の影の背後に、土煙が起こり、それは、こちらに向かってくるようでした。アルヨンはすぐさま矢を遮れそうな場所を探します。ヤルトバーンはオズヴァルドたちに、逃げろ、と合図を送りますが、まったく通じないようで、彼らはさかんに手を振り返しています。能天気。私はこの間、土煙の主を勘定していました。8騎いることを確認し、2人の戦士に伝えます。私たちがアルヨンの見立てた場所に走って向かうにつけ、ようやくオズヴァルドたちは異変に気付いて振り返って後ろを見てくれました。彼らも慌てて私たちの場所へ走ってきます。
 オズヴァルドたちがこちらに来る前に、ヤルトバーンとアルヨンは盾を構え(アルヨンの盾はフィリシアから取ったもの)、私はフィリシアとともに潅木の陰に移動し、彼女に覆いかぶさりました。とりあえず、一斉射撃による全滅は避けられそうです。
 土煙の主たる8騎は、やはりルナー巡視隊で、例の“猫にびびって逃げ出したルナー巡視隊”でした。よくよく縁があるようです。彼らには私たちの貧弱な姿がすでによく見えるのでしょう。馬を無理に駆ることはなく、こちらに向かって走ってくるオズヴァルドたちを含めて私たちをゆっくり包囲しようとしています。そして、オズヴァルドたちが私たちの場所にようやく着いたとき、包囲の輪は閉じられました。そして彼らは私たちに降伏を勧告しました。

残念だけど、ここまでみたいだね。」
せめてフィリシアがまともなら、勝算無きにしも非ず、なんだがな。」

2人の戦士にすでに鎧はなく、剣も折れ、空腹と疲労と恐怖は耐え難いものになっています。加えて、オズヴァルドたちには矢を防ぐ準備ができていません。私たちが採れる行動は1つだけでした。2人の戦士は、武器を足下に落として、降伏の意を表明しました。


縋りの藁

 2人の戦士は武器を手放したものの、その場に仁王立ちしたまま、ルナー巡視隊の隊長と思わしき騎影を睨みつけていました。両者は100拍(18)ほども睨み合ったままでいました。とうとう敵の隊長は業を煮やして恫喝してきました。

何だ? 含むところがあるのか? 俺たちはお前たちを、この危険で野蛮な状況から、慈悲深く慈愛遍く赤の女神の庇護の下に置いてやったのだぞ。」
庇護というならば!」

私はフィリシアの手を取り、茂みから飛び出して叫びました。

庇護というならば、どうか、この女性をあなた方の馬に乗せてパヴィスまで連れて行ってやってください。」
何だ? この女は。病気か?」
いいえ、心の奥底に恐怖が巣食っているんです。彼女は、その恐怖から魂を守るために心を閉ざし、自立的な行動が取れないでいます。」
ふん、その不気味な女を我らが愛馬の背に乗せろ、と言うか。」
さらに、私どもにあなた方の食料を分けてくださることも、重ねてお願い申し上げます。私どもはこの2日間飲まず食わずで歩いて参り、とくに、これ以上水を摂らないでいると、何らかの機能障害を起こす可能性があります。」
やれやれ、面倒な捕虜だ。いっそ、全員殺して河へ放り込むか?」
いいえ、高潔なあなた様がそのようなことをなさるはずはございません。あなたは、パヴィス総督ソル・イール閣下(19)の名誉と停戦委員会(20)の約定にかけて、私たちの要求を快く容れてくれるはずです。」
ふん、停戦委員会などくそくらえだが、ソル・イール様の名を出されては致し方ない。おい女、今回は言いくるめられてやるが、2度目はないと思え。」
はい、それで結構です。」

私はみんなの方へ向き直り、笑顔を見せました。

ちゅうことになったで。はぁ、標準サーター語、しんど。」
このぉ、勝手なことしやがって。」
…まぁ、どうせ捕まるなら、水が飲めて、食事ができる方がいいけどね。」
はぁ、はぁ、拙者がもう少し早く気付いていれば…、申し訳ござらぬ。」
いや、どのみちフィリシアがああだからな。それより荷物、すまなかったな、オズヴァルド。」
んはぁ、いや、当然のこと。ところで、フィリシア殿はいかがなされたのでござるか?」

ヤルトバーンがオズヴァルドにフィリシアのことを(微妙な問題を避けて)説明している間、アルヨンはピリューという名の男、いえ、子供と何やら見当もつかぬ言葉で互いに話し合っていました。そして私は、フィリシアを誘導して、彼女を馬に乗せるのを手伝っていました。それが済むと、ルナーの隊長はヤルトバーンたちに叫びます。

おい! お前らの荷物は積まなくていいのか?」
気遣い無用だ。」
ふん、可愛げのない。おい、威勢のいい姉ちゃん、お前も馬に相乗りしてくか?」
えぇ。喜んで。」
よし。じゃあ、あいつに乗せてもらえ。」

と言って、ルナーの隊長は比較的大柄な兵士を指差しました。私が会釈をすると、彼は戸惑った風でした。そして、彼の手を取って私は馬上に上がりました。

お前らに関わったせいで予定がずいぶん遅れている。飲食は歩きながら摂れ。出発するぞ。」

 一行は河沿いのなだらかな土地を一路北へ向かって進みます。いまやフィリシアは馬上にあって、他のメンバーは馬の歩調に合わせて小走りを要求されているので、ずいぶん距離が稼げそうです。しかし、日没前にパヴィスにたどり着く、というわけにはいきませんでした。辺りが暗くなるにつれ、私の心にはまたもや不安感が湧き上がり始めたので、私は一つ首を振りました。すると、私は現実に引き戻され、周囲もよく見渡せるようになりました。ですが、ほっと胸をなでおろすのもつかの間、私たちの前方に人影がいくつかあるのに気付いて、私はじっと目を凝らしました。あぁ、どうしたことでしょう。あれは私の父母と弟妹です。私は短い腕で乗馬の首を締め上げ、叫びます。

だめーっ!」

私の乗ってる馬は急停止し、私は振り下ろされそうになりましたが、騎手が私の襟首を掴んだので、落馬は免れました。

何をするんだ!」
せ、せやかて、前に人が…」

と、私が指差した先には何もありませんでした。

ご、ごめんなさい。」
寝ぼけてんのか? 今度やったら鞍に縛り付けるぞ。」

 その後、私の目の前には累々たる屍が、あるいは城壁が、あるいは水面が次々と迫りましたが、私はじっと我慢しました。我慢するほどに、身体が震えてきます。その振動は騎手にも伝わったようで、彼はゆっくりと馬を止めました。

おい、大丈夫か?」
へ? 何が?」

振り返った私の顔を見て、彼はさらに驚いたようでした。

おい、お前の顔、唇まで青いぞ。ちょっと待ってろ。隊長!」

他の騎手たちも、私たちの乗ってる馬にあわせて速度を落としていたので、ルナーの隊長は馬首をめぐらしてすぐにこちらへやって来ました。

何事だ?」
隊長、この女、ちょっと様子が変ですぜ。休ませないと、あの女みたいになるかも…。」
ふん、よくよく厄介な連中だな。仕方ない、ちょっと早いが今日はここまでにしておこう。全員! 下馬! 野営の支度をしろ!」

私の乗っていた馬の騎手は私の肩をぽんと叩きました。

おい、良かったな。休めるぞ。さっさと俺の馬から下りろ。」
あ、脚が動かへん…。」
何ぃ? まさか、俺が下ろすのか? 何で騎兵の俺が…。そうだ、あいつらにやらせよう。おい、お前ら! こいつを馬から下ろせ!」

そして、私はアルヨンによって馬から下ろされました。異教徒には私の眼力も通じないみたいです。それとも、弱ってるからでしょうか? 地面に下ろされた私は、その場で吐いてしまいました。ルナー兵たちからの印象をさらに悪くしたようですが、おかげでアルヨンが、私を引き取りたい、とルナー側に申し出たとき、彼らは簡単に応じてくれました。
 彼が私を抱きかかえて運んでくれたとき、私は実感しました。彼に抱かれていると、私の心の不安が薄れていくのを。あぁ、アルヨン、アルヨン…、私はあなたを強く抱きしめて、あなたの中に溶け込んでしまいたい。私は彼を強く抱きしめるあまり彼の背中に爪を立てていましたが、そんなことには頓着できませんでした。そうして彼をがむしゃらに抱きしめているうちに、私の心の中には消え去った不安とは別の不安が湧き上がってきました。この人に邪魔にされたら、どうしよう、と。私は抱きしめる力を緩め、震える唇でこれだけを言いました。

捨てないで…。」

 私は結局アルヨンに抱きついたまま寝てしまい、私は夜明け前に目覚めたのですが、このときもそのままでした。可愛そうに、アルヨンは私にへばりつかれたまま、座って寝ていたようです。辺りを見渡すと、フィリシアはヤルトバーンの隣で横になって眠っていました。ヤルトバーンもアルヨンの行動を見てフィリシアを引き取ったのでしょう。ピリュー少年はアルヨンになついているようで、私たちの足元で身体を丸めて寝ていました。オズヴァルドは、相変わらず何が楽しいのか大剣を抱えて眠っています。
 見渡していて驚いたのは、私が朝起きて、周りを見渡す余裕があったということです。でもその理由はすでに私には分かっていました。いまも私を抱いていてくれている人のおかげだということが。それにしても、私の口先には昨夜呟いた一言の名残が残っていて、私を赤面させました。捨てないで、とは。まだ彼が私のことを好きかどうかも分からないのに。と、思った瞬間、私は例の吐き気を催す不安感に苛まされました。彼が私のことをどうとも思っていないなんて…。いや、そんなことがあるはずがない。あってよいはずがない。

絶対にあてのことを好きにさせてみせる!」

私の決意表明は、アルヨンを起こしてしまいました。

んぁ? もう朝?」
あ、ごめん。まだ誰も起きてへんよ。それより、横になって。」

私は彼から離れて、彼を支えてゆっくりと地面に横たえました。まだ、東の地平線が紺色を薄くさせているだけで、みんなが起きるには半刻ほどもかかりそうです。私はアルヨンから離れると立ち上がって、手を後ろに組みながらうろうろとしていましたが、面白いはずがあるわけなく、横になっているアルヨンの左のわきの下にもぐりこみました。そして、みんなが起きるまで、アルヨンが好きな食べ物は何だろう、アルヨンが好きな歌は何だろう、と、本人に聞けば済むことをずっとずっと考えていました。


  1.   長さの単位。成人男子の指先から肘までの長さ。(地方によってばらつきがあるが、1キュビト=45cm)

  2.   かように、一般のエスロリア市民にとってはプラックスは「世界の果て」であり、ペローリアなどは「世界の果て」のそのまた向こう、ということになる。ちなみに、ペローリア人もプラックスのことを「果ての地 [the Borderland] 」と呼んでいる。

  3.   形式から見て、エスロリアの14行詩の一つと思われる。そうであればこの後に7行続くことになるが、今日には伝わっていない。おそらく、謳われた名がその後の人々の遠慮を招いたものであろう。(ソラーナは、アーグラス大王の妻の名。)

  4.   ワルキューレ。戦死した魂を神界のオーランスの宮殿へ連れて行ってくれるとされる半神。ふつう、戦装束で描かれる。

  5.   知性と手を持つ鳥。ドゥルズとも呼ばれる。泳ぎと奸智に秀でる。かつてはケタエラ及びクリーク・ストリーム川流域に点在し、ケタエラとドラゴン・パスを結ぶ河川交易を独占的に支配した。その繁栄の跡は、ダック・ポイント市の名に留まっている。だが、1613年の「敗者オーランスの戦い」後、ルナー帝国により人心を安定させるスケープゴートとして、反乱煽動の罪を問われて虐殺の憂き目にあい、今日ではケタエラでしか見ることができない。

  6.   スンチェンの一派で、狼を祖とする。こちらは1602年のサーター征服の際にスケープゴートとなったが、山野に住むゆえしばらく余喘を保ち、1607年には親ルナーのマボダー氏族を滅ぼした。だが、これがルナー帝国の本格的な追討戦を呼び込むことになり、同年、テルモルの氏族は壊滅。彼らはサーターの民にも嫌われていたため彼らの迫害にも遭い、今日では絶滅したと考えられている。なお、彼らはその衰微の過程で混沌を受け入れたと伝えられている。

  7.   御影猫 [Shadowcats] の神、インキンのこと。

  8.   温帯の山野に生える多年草。

  9.   コラリンソール湾に南面して左側の岸、すなわちヒョルトランドのこと。

  10.   《恐怖》や《狂気》といった呪文は、月に関わりが深い上、古い神々がほとんど対抗手段を持っていなかったため、ルナー軍は好んで使用した。エミーネ女史の診断は、帝国の対抗陣営が狂気を深く研究していた成果の現れである。

  11.   パヴィスにある酒場兼宿屋。後の英雄戦争で活躍する多くの著名人が通っていたため、別の物語でこの店の名を知る人も多いだろう。

  12.   プラックスに散在する知性ある猿。その知性の低さから周辺の人々の軽侮を買っているが、帝国中心部からの旅行者の手記にはその素朴で敬虔な生活を称えているものも見られる。

  13.   このヤルトバーン氏のルナー兵に対する評価は、当時は彼らが辺境にあってもある程度の公正さを保っていたことを示してはいないだろうか。あるいは、パヴィスにおいては名高いソル・イール卿の訓令が行き届いていたのかもしれない。

  14.   夜の神。

  15.   パヴィス伯領を含むダゴーリ・インカース周辺では、かの地に住む巨大昆虫が稀に群れから離れて徘徊している。巨大昆虫の鳴き声はこの辺りの住民にとって風景の一部であり、歌にも詠まれている。

  16.   ウェアラン人社会の時間の単位。夜明けから翌日の夜明けまでを16等分し、1刻となす。当然、季節によって1刻の長さは異なる。(1刻=90分)

  17.   すべてお菓子。バラクヴァとは、幾重にも生地を重ねて焼いたパイを糖蜜に漬けたもの。テル・カダユフとは、細い揚げ麺に糖蜜をふんだんにかけたもの。トゥルンバとは、油で揚げたドーナツを糖蜜に漬けたもの。ビュルビュル・ユヴァスとは、クルミを砕いたものを皮に包んで、焼いたあとに糖蜜をかけたもの。コンポストとは、糖蜜漬けの果物のこと。

  18.   時間の単位。通常の人間の安静時の脈を基にしている。普通、人間は3拍で6m程歩くことができる。(75拍=1分)

  19.   “イール”の称号を帯びる、帝国貴族出身の教養人。公正な統治で被征服民からすら敬意を受けた。

  20.   1610年のプラックス併合時に設けられた機関で、帝国に対してパヴィスの利益を代弁する役割を果たしていた。


Appendix : Casts
キャスト
エミーネ・ハナルダ:エスロリア出身の看護婦。“癒し手”アーナールダの信者。人間の女性、22歳。
Emine Hann'ernalda: a Nurse from Esrolia; an Initiate of Ernalda, the Healer; Human Female, 22.
STR 6
CON 18
SIZ 8
INT 15
POW 11
DEX 16
APP 15
Move 3
HP 13
FP 24-15=9
MP 11+6=17
DEX SR 2
 
Insanity 37
Depending
on Al'yon
22
R. Leg 0 / 4
L. Leg 0 / 4
Abdomen 3 / 4
Chest 3 / 5
R. Arm 0 / 3
L. Arm 0 / 3
Head 4 / 4
運動 (+6) 回避 55%
操作 (+9) 修理 10%
交渉 (+9) オーランシー男性を睨みつける 55% 雄弁 10%
知覚 (+9) 聞き耳 30% 視力 30%[c]
知識 (+5) 応急手当 38% 植物知識 30% 製作,辛い料理 25% 病気の治療 20% 毒の治療 20% 動物知識 15% 製作,搾乳 15% 製作,剃毛 15% 人間知識 15% 鉱物知識 15% 世界知識 15% 鑑定 10% カルト知識 10%
隠密 (+8)  
魔術 (+9) 呪付 12% 召喚 12% 浄化 10%
言語   Esrolian 35/15 Sartarite 18/-
武器 SR A% / D% ダメージ AP 備考
剣杖 6 9 / 6 2D6+2 10 フィリシアから借りてる
かま 8 14 / 11 1D6 6  
精霊魔術 (9-15=-6) 発動率 49%
治癒 II
 
神性魔術 (9-15=-6) 発動率 94%
収穫祈願 x1 ヘビ支配 x1 傷の治癒 x1
防具: 胴体および頭部にクイルブイリ、その上で頭部に薄い革
財産: 2ペニー。医療鞄、麻と毛の衣服、ナイフ、かま、麻袋、発火具と火口、気の精霊を呪付した指輪 (POW 6) 、治癒焦点魔漿石 (POW 1)、フィリシアから借りた剣杖。