エミーネ、失踪するの巻 |
Emine Disappears |
Prax, 44th - 44th Earth 1622 S.T. |
- 運びのブント
- 「
- まったく女ってやつは、どんなときでも支度に時間がかかるな。おぅ、とっとと荷台に乗っちまいな。」
わたしたちをアルダチュールに連れてってくれる御者のブントは、いきなりのご挨拶で、思わず反論しようとも思いましたが、ここはぐっとこらえます。フィリシアとともに荷台に上がると、そこは干魚が満杯でした。それでもえいやと乗り込むや、馬車は急発進。激しい揺れとひどい臭いで、再びパヴィスを出なければいけない事情から来る感慨は欠片も抱くことができませんでした。
臭いと振動に加え、日が昇ってきたのでしょう、暑さまで加わり、早くこの時が過ぎ去れ、過ぎ去れ、と念じていましたが、それすらも億劫になってきた頃、馬車が停止し、幌が開かれました。
- 「
- おぅ、頑張ったな。もうパヴィスは丘の向こうだ。前に乗せてやるぜ。」
- 「
- はぁ…、ど、どうも…。う…」
- 「
- 手、手で押さえろ! 商品にかけるなっ!」
乗り物酔いを朝食とともに体外に吐き出して、水を飲み、一心地ついてようやくわたしは馬車に乗り込みました。フィリシアはといえば、鍛錬の賜物か、降りるときも乗るときも一切ふらつくことなく、まるで荷台での悪影響を受けていないようでした。
- 「
- 改めて自己紹介しとくぜ。俺ぁマスターコスの運び手、“葦が原の”ブントってんだ。パヴィスからボールドホームを経て、カーシーに至るルートで稼がせてもらってるんで、パヴィスの大地の寺院とも付き合いがあるってわけさ。ご注文のアルダチュール行きはちょっと遠回りだが、小遣い稼ぎにゃ悪くねぇ。加えて悪漢どもに狙われた女たちを救うとあっちゃあ、なお悪くねぇ。」
- 「
- 悪漢どもに狙われた…?」
- 「
- おぅ、そう聞いてるぜ。姉ちゃんたちも連中を敵に回すたぁ、てぇしたタマだ。おぅ、よかったら何があったか聞かせてくれねぇか? 何かの助けになるかも知れねぇ。」
- 「
- い、いまは言えないんどす。言えば、きっとご迷惑がかからはります。」
なんだかどえらい勘違いをしてそうなので、わたしはかわすことにしました。
- 「
- くぅ、偉ぇ。偉ぇよ姉ちゃん。そうだよなぁ、俺みてえな半端もん、下手に関わりゃ役に立たないばっかりか、かえって迷惑をかけちまうに違ぇねえ。いや、きっとそうだ。分かったぜ、俺も深くは立ち入らねぇ。だが、姉ちゃんたちは必ず無事にアルダチュールに連れて行く。それだけは任してくんな。」
- 「
- ほんまにおおきに。よろしゅう頼んます。」
- 「
- …。」
- 「
- …。」
- 「
- …。」
- 「
- あの…。」
- 「
- おぅ!」
- 「
- ははっ、いつでも威勢がよろしいでんな。」
- 「
- あたぼうよ。頭と稼ぎが悪い分、威勢と気風のよさで売ってるんだ、こちとら。で、なんだい?」
- 「
- いや、隣に黙って座ってるのもなんだから、おしゃべりしようかなって。」
- 「
- おぅ、うれしい心配りだ。どんな話でも振ってくんな。」
- 「
- え、えぇと、それじゃ…、ブントさんの仕事は干魚を運ぶことなんどすか?」
- 「
- 干魚だけじゃねぇぜ。つーか、干魚はあまりねぇ。今日は人を運ぶって聞いたんで、軽い荷にしたんだ。干魚を運ぶつったら、闇の季、河を昇ってきた鮭やマスを干したのをパヴィスから街道沿いに点々と、クラブレアまで運ぶな。こんな小っちぇもろこなんざぁ、まず運ばねぇ。」
- 「
- へぇ、いつも同じものを運んでるんじゃあないんどすな?」
- 「
- あたぼうよ。一番いいのはカーシーから舶来品を運ぶときだが、帰りが空じゃ勿体ねぇ。ボールドホームからは藍や原毛なんかを運ぶな。俺の親父の時代にゃ、剣や盾をパヴィスに持ってくといい値段で売れたらしいんだが、今じゃルナーの連中のせいでさっぱりだ。パヴィスからは皮革細工と、そうだな、変わったところで花なんかも運ぶな。河の上流にエルフどもの庭があって、そこで咲いてる珍しい花の種が、川に流されて運ばれるのを、姉ちゃんたちの寺院が栽培してるんだ。」
- 「
- へぇ、花かぁ…。干魚やなく、花に囲まれて運ばれるんやったら素敵やったろうな。」
- 「
- 花つったって、運んでるときにゃ種か苗だぜ。肥料のおかげで臭いもすごい。」
- 「
- 染料、原毛、皮革細工に干魚、肥料付の苗。なんだか臭いのきついのばっかり。」
- 「
- そりゃそうだ。もう、この馬車にはいろんな臭いが染み付いちまってるからな。いまさら布帛や酒なんか運んでも、臭いがついて売れやしねぇ。」
- 「
- その手のもんに手を付けたが最期、ってわけどすな。」
- 「
- そうなんだよ。誰だって新品の馬車を卸した時にゃ、俺ぁもう臭えもんは運ばねぇ、信用のある運びをやって、いつかは手下を雇ってやるって思うんだがな。綺麗な商品ばっかりで仕事があるわけじゃねぇし、それを選り好みしてちゃあ懐が寂しくなって、しまいにゃ博打に手ぇ出して、ようよう汚れ運びに逆戻りってわけだ。」
- 「
- あ、あちゃあ…。」
- 「
- かと言って、悪いことばかりじゃねぇ。姉ちゃんさっき、パヴィスの門を通ったの気付いたか? 気付かなかったろ。臭ぇ運びはどこの門でも待たされることなくすいすいよ。それに、」
- 「
- それに?」
- 「
- たまにゃ、こうやって人助けも出来るしよ。結構、悪くねぇぜ。」
- フィリシアの変化
やがて馬車はその晩の宿に差かかります。
- 「
- おぅ、もう着くぜ。今夜の宿は、飯は美味くねぇが、屋根があることが売りだ(1)。
- ところで、とうとうこっちの坊主は一言も口をきいてくんなかったな。ひょっとして、これか?」
ブントさんは口をパクパクさせました。
- 「
- これか…って、ああ! フィリシアはちょっとこの前驚くべきことがあって、こんなんなってしまったんどす。生まれたときからこうやありまへん(2)。」
- 「
- 驚くべきこと? ははーん、それが姉ちゃんたちが悪漢どもに追われてる原因か。おっといけねぇ、深入りはしない約束だったな。さて、着いたぞ。俺ぁ馬を預けてくるから、姉ちゃんたちは場所を陣取っておいてくれ。」
そう言うと、彼はひらりと馬車から降り、後から降りるわたしたちに手を貸してくれました。そして、ここまでわたしたちを運んでくれた馬を労わるように撫でて、宿の裏へと連れて行きました。
それにしても、彼、フィリシアを“坊主”って呼んだ? サーター語の特殊な表現かしら? もっとも、髪を短くして、旅で鍛えられた身体を持つ彼女は、確かに言われてみると少年のようにも見える。ま、考えてみると女二人で荒野を旅する、というのもずいぶん危ない話だし、そうね、彼女は、いえ彼はわたしの弟、ということで通すことにしましょう。
宿は、一般的なサーター様式の宿でした。わたしたちエスロリア様式の宿は、大地のルーンの形をしていて、建物は部屋の連なりであると同時に中庭を守る壁であり、人々は中庭で馬を休め、またその晩の煮炊きをし、商品を広げて商いをします。サーターの宿は、ただの大きい農家造りの家であり、家畜は宿の裏にある囲いに預けます。建物は、入り口から入るとまず地面がむき出しの土間があり、宿泊客はここで煮炊きをし、かさばるものを置きます。奥に一段高い座敷があり、宿泊客はめいめい勝手な場所に陣取って、周囲に屏風を置いて隣との境界とします。互いを覗いたり覗かれたりするのはまったく自由ですが、わたしたちの国で男女が同じ公共浴場に入ってもどうということがないのと同じで(サーターの人々はこの話をすると驚きます)、サーターの人々も隣にうら若い女性が寝息を立てても事を起こそうとしたりはしません。多分、そんな不埒な者がいたとしても、宿の他の客がそれを知ったなら、彼をつまみ出すことでしょう。もっとも、北の人々はこういうのがお気に召さないらしく、巡視隊が泊まる宿には自分たちのために別館で個室を設けさせています。
そういうわけで、わたしは座敷で自分たちのスペースを確保し、緩やかな服に着替えて、乾布で旅塵を落としました。自分の方が一段落すると、今度はフィリシアの服を脱がせて身体を拭いてやります。
- 「
- せやけどこの肉の硬さ、男ってほどやないけれど、確かに女の子ちゅうんでもないな。おっちゃんが間違うんも無理ない、無理ない。この手の甲の血管の太いことと言ったら…、あれ?」
昨日わたしは、フィリシアの均整の取れた美しい肢体をしっかりと検分していたのですが、そのときの彼女の肌で普段は布で覆われている箇所は、透き通るような白い肌で、実際にか細く青い血管が透き通っていました。いま、彼女の血管はわずかに皮膚より隆起しているようです。
- 「
- フィリシア…、あての知らんうちに鰻食うた?
- …、食うてへん、食うてへん。」
「アンドロギュウス(3)」。ふと、わたしの頭からそんな単語が掘り起こされました。「大いなる夜(4)」にこの世に生じ、五人の子供の母となり、四人の父となった、男女を相備えるが故の悲嘆と復讐の人…。なぜ、そんなことを思うのでしょう? きっと、ブントさんが余計なことを言ったからでしょうが、わたしは妙に気になり、彼女の顎の周りを撫でて髯を探り、喉を撫でて喉仏を探りましたが、どちらもあるような、無いような感じです。そこで、
- 「
- フィリシア…、ごめん!」
わたしは彼女の下穿きを下ろして、彼女の女性たる証を検分することでこの疑問を振り払おうとしました。が、
- 「
- よっと…、うぅん、違うと言えば違うんかなぁ、これがちょっと大きい気ぃもするけど…。せやけど他人のをここまで見たことないし、自分のよぅ見えへんし…。」
結局、彼女の身体に異変が生じているのかは確信がもてませんでした。が、わたしがアンドロギュウスのことを思い出したことで、わたしは不安でたまらなくなりました。かの悲劇の人が産んだ子供は、「不浄の種族」、「混沌の歩む者」、「生命を食らう者」、「不自然なる者」。かの人は混沌の母胎となってしまったのです。ブルーに陵辱された哀れな人が自ら望まず混沌になってしまうように、混沌の存在は本来本人の意思に関わり無く、混沌です。何の因果か性を乱されてしまったかの人も、自ら望まず混沌の母胎となってしまったのでしょう。「忌む風」との戦いのとき、わたしはその場にいなかったから詳しいことは分かりませんが、それがフィリシアを構成する本質を引っ掻き回してしまうものだとしたら…。混沌、この世にあってはならないもの、の恐怖がわたしの心を捉えて容易に放してくれませんでした。
- 男と女の話
翌朝は気持ちよく目覚めました。重大なことで心を悩ませていたはずなのに、慣れない馬車旅のおかげで得た疲れが、わたしを深い眠りに誘ってくれました。
わたしたちを含む旅人たちは、それぞれが携帯する米と塩、それともっていて出す気がある人はさらに漬物や干物を出し、宿屋から大鍋を借りて(四分の一銀貨(5))、それで煮て粥にします。その都度入れるもので味が変わる、旅の朝のスペシャルメニューです(6)。その日の朝は、カラドラランドから来た商人が入れた赤唐辛子のおかげでとってもスパイシーでした。もちろん、こういう朝食を好まない人は、もし宿屋にあれば小さな鍋を借りて、もっともこういう人は自分用の鍋を携帯しているものですが、自分のためだけの朝食を作ります。わたしはこういう人を見ると、なんだか寂しい気持ちになるのですが。たとえそれが、フマクトの剣士さまでも。
わたしたちは再び車上の人となり、パヴィス街道を西進します。ブントさんは昨日は旅をするうちにあちこちで拾った話をたくさんしてくれましたが、まだ旅は長いのに、昨日はネタを出しすぎた、とでも思ったのか、今日は自分からしゃべるよりもわたしに話を振らせようとしていました。そこでわたしは、彼は当然ヒョルトランドには詳しいので、エスロリアの話をすることにしました。
- 「
- …するってぇと、あれかい? エスロリアじゃあ茶屋で優男が給仕してて、それをババァどもが隙を見ちゃあケツ触ってるってか? ひぇぇ、なんとも萎える話だぜ。」
- 「
- せやろ、せやろ? 国にいたときはあても、よく艶笑劇なんかで言うやんか、ふふっ、口では嫌や嫌や言うても、悲しいかな、身体は素直なもんでんな、って。男の子たちかてそんなに嫌がらんでも、って思ぅてたんよ。でも、パヴィスでやっぱり艶笑劇で、今度は弛んでそうなおっさんが若い娘にそれ、やってるやんか。それ見て、もう気色悪ぅて、気色悪ぅて。」
- 「
- 姉ちゃんの気持ち、よく分かるぜ。逆の立場からだけどよ。あ~あ、今度からは俺も女ぁ扱うときは気付けねぇとな。」
- 「
- あても。」
- 「
- え? そうだったんか?」
- 「
- せやかて、そんなん女の甲斐性やんか。」
- 「
- ほら、気をつけろ、気をつけろ。」
- 「
- せやった、せやった。」
なんだか妙に節度のある結論に落ち着いたのでした。が、話している当の二人は落ち着きません。
- 「
- …。」
- 「
- …。」
- 「
- そうは言ってもよぉ、やっぱり女は男にリードしてもらいたいもんなんじゃねぇか?。」
- 「
- そうは言うけど、やっぱり男性も自分ばかり動くんじゃつまらないんやないやろか?」
- 「
- まぁ、期待しているときはな。だが、疲れてるときはうざったいだけだ。」
- 「
- そうかちゅうて、聞くんも萎え萎えやしね。」
- 「
- …。」
- 「
- …。」
- 「
- …。」
- 「
- せやけど、こぅ少年が相手んことまで気が回らずに、もうがむしゃらになってるんとか、」
- 「
- 初な娘が不安で身を硬くしてたりするのは…、」
- 「
- やっぱ可愛いやんか。」
- 「
- 可愛いよな。」
- 「
- …。」
- 「
- …。」
- 「
- …。」
- 「
- ここまで話があう奴は、男でもそうはいないぜ。」
- 「
- ははっ、おおきに、おおきに。ブントはんも男にしとくのがもったいないで。」
- 「
- ま、あんまり男だ女だとか他のことでも、何でも分けて考えるのがいけねぇのかもな。汝、捉わるること勿れ、だ。」
- 「
- そそ、いつだって他の方法はあるんやからね。」
と、結局お定まりの文句でけりを付けるのでした。
一呼吸置いて、
- 「
- あんな、ブントはんを話の分かる人と見込んで相談があるんやけど…。」
- 「
- なんでい、改まって。」
- 「
- あてな、無茶好きな男がおんねん。けど、あての方がちょっとトラブってて、そんな女と深く関わっても、彼に迷惑やろ、と思ってんよ。」
- 「
- …はん。」
彼はわたしの心底を見透かしたのでしょうか。
- 「
- まぁ、若ぇときにはそう考えるもんだよな。何だから好き、何だから嫌い、なんてこたぁ無ぇのによ。俺にもよ、カーシーに女がいて、器量はさほどでもねぇんだが、その黒髪はちょっと評判なんだ。だが、俺が帰ってみて奴が白髪頭になってたとしても、俺は奴を捨てないだろう。」
- 「
- 問題があるんはあての方なんやけど。」
- 「
- ひっくり返しゃ同じことだ。姉ちゃんがトラブルに巻き込まれてようが、歯が欠けてようが、姉ちゃんの意中の野郎が姉ちゃんを好いてりゃ、そんなの関係ない。」
- 「
- いや、好かれる好かれない、いうやなくてな、そら、アルヨンは優しい人やから、受け入れてくれるかもしれんけど、彼に迷惑がかかるか、いうことを心配してんねん。」
- 「
- アルヨン、ねぇ…。そのアルヨンとやらが、まぁほかの男でもそうだが、好きな女のために背負う苦労を迷惑なんて思うかよ。思うような野暮天には思わせておくのが相応の罰だな。」
- 「
- う…、まぁ。」
- 「
- 迷惑がかかるだとか、いびきをかくだとかもっともらしいこと言っといて、」
- 「
- かきまへん。」
- 「
- じゃ、迷惑がかかるだとか、毛が濃いだとかもっともらしいこと言っといて…、」
- 「
- もう、ええです。先、続けてください。」
- 「
- じゃ、姉ちゃん、振られるのが怖いだけなんだろ?」
- 「
- そら、一応は。」
- 「
- 別に命懸けの決闘じゃねぇんだし。一回目で失敗しても、何度も迫りゃいいじゃねぇか。」
- 「
- そうやね、そうやわ。手練手管で落したるか。」
- 「
- それでいい。ま、そんだけ悩む分、真剣ってことか。なぁ、俺に後押しまでさせて。腹積もりはほとんど出来てんだろ?」
- 「
- ブントはんにはかなわんわ。ほんまは、こん話持ちかけたときに察してたんやろ? あほくさ、思うても付き合うてくれて、おおきにな。」
- 「
- いや、暇だからいいさ。で、いつなんだ?」
- 「
- アルダチュールに行って、連れを置いてからパヴィスに帰ってからや。彼、パヴィスで待っててくれてんねん。」
そう言うと、わたしの想いはふっと、アルヨンが待つパヴィスへと飛んでいくのでした。
- フィリシアの失踪
その日の終わりに馬車は次の宿亭に着き、これまたサーター様式の宿屋で、わたしたちは自分たちのスペースを確保し、食事して、身体を拭き、わたしはさらにフィリシアの世話をし、今夜は悪い夢を見ないようにと祈って、床に就きました。
しかし祈りもむなしく、その晩は久々に悪い夢を見ました。ただ夢は、もはや具体性を帯びずにただ嫌な感触だけをわたしの身に残していくのでした。わたしは暗闇の中をただただ堕ちて行きます。
- 「
- (…っ! はっ、夢。夢? 真っ暗やし、それに…息ができへん!)
- ぷはっ!」
わたしは朝起きたときにうつ伏せになっていたのでした。より具体的な凶事がわたしの目覚めを待ち構えていました。身体を起こしてあたりを見渡すと、
- 「
- はぁっ…、はぁっ…、はあっ…。あぁ、びっくりしてもうた。あれ、 フィリシアは?」
フィリシアの床が乱れたまま、主が不在でした。まるで、起き出してどこかへ行ったかのよう。まるで…、
わたしは肩がはだけた部屋着のまま、靴も履かずに外へ飛び出して辺りを見回し、さらにフィリシアの名を呼びました。外はまだ暮明、蟲たちすらもまだ寝入っている静けさの中、わたしの呼び声だけが響きます。わたしがさらに彼女の名を呼び続けながら、宿の周りを一回りしたところ、ブントさんがわたしの肩に手を置きました。
- 「
- おぅ、姉ちゃん、朝っぱらからどうしたんでい?」
- 「
- …あ! ブントはん、フィリシアが、フィリシアがいなくなっちゃったの! ブントはんも探して!」
- 「
- 待ちな! 落ち着け、落ち着けって。こんだけ呼びゃ、近くにいれば聞こえてるだろ。」
- 「
- あ、あ、でも、フィリシアはいま、普通とちゃうから…。」
- 「
- なら、なおのこと。姉ちゃんがうろついたって始まらねぇ。フィの字を探すについちゃあ俺さまだってついてるんだ、とりあえずは落ち着け。」
ブントさんの落ち着いた低音がわたしの身体に染み透って、わたしは落ち着きを取り戻してきました。
- 「
- んんっ、落ち着きました。もう、大丈夫どす。」
- 「
- よし。いないいないっつうが、いないつってもいろいろあんだろ。まず、いつ頃からいねぇんだ?」
- 「
- あ、あのさっきあてが起きたら、もうそこにはいてへんで、いついのうなってしもうたんやら…。」
- 「
- 大丈夫だ、大丈夫。羽が生えて飛んでったってんじゃねぇんだ。そうか、しかし…。」
- 「
- せや…、フィリシアはいま、自分では動けへんのに…。まさか!」
- 「
- 俺じゃねぇぞ。」
- 「
- …。ほな、山賊が!」
- 「
- ほなって何だ、ほなって。山賊かい? 山賊だったら俺たちゃ今ごろみんな生きちゃいねぇよ。盗賊だったらブツだけ持ってくだろうし、人攫いだったら、何だって坊主なんか。姉ちゃんの方が買い手があるってもんだ。」
- 「
- え…、えへ。あ、いや、そうや! フィリシアは脚に絶対抜けない神宝を身に付けとる! 取れへんからって、身体ごと…。ほんで、ほんで…。」
- 「
- 頃を見て、脚をバサーッってか?」
- 「
- いやーっ! フィリシアー!」
- 「
- わ、悪ぃ。ちょっと待て、その神宝っての、誰が知ってるんだってんだ?」
- 「
- いや、誰も…。せやかて…。
- あぁっ! あて、こんなときに《神託》持ってへんなんて! あん時にあんなことで使わなければ…(7)。せや! とっときの《ヘビ支配》で…。」
- 「
- 待て待て。ヘビどももまだみんなおねんねだ。ヘビより俺さまの方が役に立つぜ。こういう時はよ、まずは足跡を見て、行った先の大体の見当をつけるもんだ。」
- 「
- おおっ!」
- 「
- おし、それじゃ門の前まで行ってみよう。」
- 「
- …。」
- 「
- どないです?」
- 「
- フィの字は靴は履いてったのか?」
- 「
- いいえ。」
- 「
- …、確かに裸足で出てった小せえ足跡があるんだがよ、その上から同じくれえの裸足の足跡があっちぃ行き、こっちぃ行き…。」
- 「
- ひょっとして、それ…。」
- 「
- まぁ、過ぎたことは仕方がねぇ。」
- 「
- あ、あてのせいで…。」
- 「
- だから、仕方がねぇつってんだろ! 大体よ、このパヴィス街道は東に行くか、西に行くかしかねぇんだ。手前で歩いてったにしろ裸足だし、人攫いがさらってったってこともなさそうだ。二手に分かれて探しゃ、絶対見つかる。」
- 「
- 二手?」
- 「
- そうだ。俺は…、そうだな、姉ちゃんは、東へ行け。まだパヴィスからたいして来ちゃいねえんだ。もしが東へ向かったんなら、最悪、追っつかなくてもフィの字はパヴィスに着くだろう。で、俺は馬車で西へ行く。お互ぇ、半日行って見つけらんなかったら引き返してきて、夕方にまたここで落ち合う。どうでぇ?」
- 「
- ブントはん、そこまで…。」
- 「
- いいんだいいんだ、仕事のうちよ。仕事にゃトラブルが付きもんよ。」
- 「
- 恩に着ます。」
- 「
- おぅ。ぐずぐずしてっと、どんどん距離を明けられちまう。さっさと行こうぜ。」
一刻も早く何とかしたいのに、どうしていいか分からず空回りしていたわたしにとって、ブントさんの考えは光明のようで、わたしは理非も講じず、彼の言うとおりにすれば必ずフィリシアは見つかると、すっかり信じていました。こうして、わたしはパヴィス街道を東へ、ブントさんは西へ、それぞれフィリシアを探しに分かれて行きました。
- アルヨンとの再会
こうしてわたしは東に向かって街道を歩き始めます。下着のほかは何一つ、履物さえ持たないフィリシアがあてどもなく彷徨っているかと思うと気は急くのですが、見落としたら何にもなりません。わたしは歩く都度、地平線まで人影を求めて見晴るかし、また人にあう都度、消息を求めるのでした。
このようにしながらイェルムが南天に差し掛かる頃、東から来る一台の馬車からわたしを呼ぶ声がしました。
- 「
- エミーネっ!」
まだはるか前方で馬車は停止し、御者台から一人が降り立って、こちらへ駆けて来ました。
- 「
- エミーネ!」
- 「
- あ、アルヨン、わ~い。」
アルヨンはわたしの所まで賭けて来ると、勢いを落とさず、そのままわたしを抱きしめました。
- 「
- やっと、追いついた。」
- 「
- あぁ、アルヨン、よかった。」
- 「
- うんうん。」
- 「
- いま人手が欲しいところやねん。」
- 「
- はぁ?」
アルヨンは脱力したようですが、わたしはかまわず続けます。
- 「
- 大変なの。フィリシアが、いなくなってもうたんよ!」
- 「
- フィ、フィリシアが…。あ、そう。いや、フィリシアが?」
- 「
- 昨日の晩、下着のままでどこか行ってもうたみたいなんやよ…。」
- 「
- 下着のままって…、いや、ていうか彼女、自分で動けないはずじゃなかったっけ?」
- 「
- 宿から、誰も気が付かないうちにフィリシアだけがいなくなってたの。フィリシアが自分でどこか行った以外、考えられる?
- …、いや、そんな詮索は後にしてんか。とりあえず、アルヨンがここに来るまでにフィリシアを見んかった?」
- 「
- いや、フィリシアどころか、下着姿の女性一人見なかったね。こっちの方に行った、ってことは分かってるの?」
- 「
- ううん。反対方向には、わたしが乗せてもらった馬車の御者はん、ブントはん言うんやけど、彼が探してくれてる。今夜、昨日泊まった宿で落ち合うつもり。」
- 「
- そっか。じゃ、フィリシアはその人が保護してくれてるよ、きっと。」
- 「
- せやけど…。」
- 「
- とりあえず、君がこれ以上先に進んでも、何も見つけられない。君だって万全じゃないんだし、僕の乗せてもらってる馬車でその宿屋へ行こう。」
アルヨンから視線をはずすと、彼が乗ってきた馬車はわたしたちが話している間にすぐ後ろにまで来てました。御者さんと目が合ったので目礼します。
- 「
- おぅ、アルヨンよ、こいつがお前さの追っかけてるちゅう娘っ子け?」
- 「
- そうだよ、おっちゃん。エミーネっていう。」
- 「
- はじめまして。アルヨンがお世話になってます。」
- 「
- なるほどのぉ、男子一人が追うだけあって、別嬪な上に声までめんこいのぉ。で、アルヨンよ、お前さ、どうするね?」
- 「
- できれば、彼女も乗せて、次の宿屋まで連れてって欲しいんだけど。」
- 「
- そりゃかまわねぇけんどよ、ここにゃ、3人は座れね。お前さんら、どっちかは荷台の端に乗ってくれねばの。」
- 「
- おじさん、あて、彼と後ろに乗ってもええどすか?」
- 「
- あ、あ、こりゃ気付かんで。ああ、どうぞ、どうぞ。俺ぁ、いつも通りラバのケツでも眺めてるからよ、好きにしてくりゃれ。おっと、あの黒い小僧を前に座らせたらどだ? お前さが目当てを見つけるために前に乗ってる間、後ろで退屈してたんじゃねっか?」
- 「
- いや、だから彼は子どもでは…。ま、確かに後ろも狭いし、じゃあピリューをお願いできますか?」
そう言うと、アルヨンはピリューを呼んできました。
- 「
- わ、ピリュー。元気やった?」
- 「
- Magandang tanghali, Emine.」
- 「
- なぁ、いい加減言葉覚えようや。」
- 「
- Din ka.」
- 「
- …、ひょっとして理解してる?」
ということで、わたしとアルヨンは荷台に腰掛け、脚を揺られながら街道を西へ戻っていきました。
- 「
- その…、元気やった?」
- 「
- うん、まだ2日しか経ってないしね。」
- 「
- そっか、まだ2日か。なんだかずいぶん経った気ぃするわ。」
- 「
- 僕もだよ。」
- 「
- アルヨン…。」
キスかな? と期待しましたが、外れました。代わりに受け取った言葉は正反対の性質のものでした。
- 「
- ヤルトバーンが…、死んだ。」
- 「
- え? 何て?」
- 「
- ヤルトバーンが死んだ。ルナーの犬の手にかかって。」
- 「
- …そう。」
ルナーの手にかかって殺された人をわたしは幾人も知っていたし、その死に行く姿も何度か見てきた。ましてヤルトバーンはルナーの反対に立つ人、いつそういうことになってもおかしくはない。おかしくはないのだけれど、あれだけの好男子、わたしとは一週間足らずの付き合いに過ぎなかったけれど、寂寥感は意外と深いものでした。わたしなどよりずっと付き合いが深いだろうアルヨンの寂しさは幾ばかりか。わたしにはかける言葉が見当たらず、とりあえず、彼が膝の上でつくってるこぶしの上にそっと手を重ねました。
- 「
- ありがとう。」
- 「
- ん?」
- 「
- 気を遣ってくれて。でも、大丈夫。もう、乗り越えた。」
- 「
- …。」
- 「
- そんな簡単に、ってところ? でも、僕らは日々、ルナーの連中を斬ってる。いつかそういう日が誰かに、もちろん自分にも、来ることはずっと前から分かっているんだ。」
- 「
- あては知らない。」
- 「
- え?」
- 「
- あてはアルヨンが死ぬなんて思ってないよ。アルヨンは、アルヨンだけは死なんといて…、お願いや。」
- 「
- …。うん、そうだね。なるべく、死なないようにするよ。」
- 「
- なるべく? ふふっ、そうやね。
- それにしても、アルヨンはパヴィスでヤルトバーンとずっと一緒だったの?」
- 「
- いや、僕とピリューは先に帰されてね。で、2人で君と接触しようとしたり、ヤルトバーンの消息を尋ねたりしてたんだけど。パヴィスに着いて2日目の朝、当局に出向いてヤルトバーンの事を衛兵に少々掴ませて聞いて、夜のうちに処刑されたってことを知った。」
- 「
- ん? 処刑されたところを見たんやないの? それなら、人違いってことも…。」
- 「
- いや、いやいや。僕もそんな期待も抱いてみたけど、連中がそんなに間が抜けてるわけがない。僕自身、正直、泳がされてるんじゃないかと思ってずっと不安だったよ。そういえば、君の寺院の女の子、ナノという子も最初はスパイじゃないかって思ってた。」
- 「
- …ナノ。ふ~ん、アルヨンは、スパイを部屋へ連れ込んで尋問しようとしたんやねぇ。」
- 「
- う、そんなことまで。別に他意はなかったよ。本当に。あんな小さな少女をどうしようと…。ほら、それに、彼女のおかげで君たちがパヴィスを経ったのを知ったわけだし。彼女が君の手紙を持ってきてくれたんだ。」
アルヨンのあんまりな狼狽振りにわたしはちょっと失望しましたが、あの手紙を持ち出されてしまって、こちらも形勢が危うくなりました。
- 「
- あ、手紙…、ナノが持ってったんや。あ、あのな、アルヨン、あの手紙…。」
- 「
- いや、参ったよ。あれ、エスロリア語だろ? あの少女が、読めます? なんて聞くから見栄張っちゃったけど、アルダチュールって文字と、君たちの名前しか分からなかったんだから。ま、大体の見当がついたから、こうしてここにいるんだけどね。」
- 「
- あ、あはは…、ごめんごめん、ちょっと急いでたから。いや、ほんま、アルヨンがこうしてここにいるんやから、何よりやわ。」
- 「
- そうだよね。そういえば、君の方では何があったの?」
こうしてわたしたちは限りなくしゃべり続け、馬車はやがてブントさんと落ち合うはずの宿に着いたのでした。
- ブントとの別れ
宿へは、途中で引き返してきたわたしの方がやはり早く着いていました。人を待つために備えてある木陰のベンチでアルヨンと二人して座り、瓜などを食べながら、夕日の方角から来る人たちを待っていました。
すでにイェルムが西の峰々の向こうへ沈み、空が紫色になる頃、ラバにまたがった一人の男が宿の前に駆け込んできました。
- 「
- おぅ! 坊主ぅ、無事だったか、…って、坊主はどうした?」
- 「
- あ…、ほんならブントはんも…。」
- 「
- も、って、そっちもダメだったんかい? 遠くから二人の影を見たときにゃ、救われた、って思ったんだが…。」
- 「
- どうしよう!? ねぇ、アルヨン! どうしよう?」
わたしは非常な焦慮に襲われて、アルヨンに掴みかかります。
- 「
- どうしよう、って…。」
アルヨンは困惑してわたしから目をそらしました。すると、ブントさんと目が合います。
- 「
- …あ、どうも。はじめまして。彼女の友人で、アルヨンといいます。エミーネがお世話をかけました。お礼申し上げます。」
- 「
- お、おぅ。俺ぁ“葦が原の”ブントっていう。世話ってほどのこたぁねぇ。つーか、何の役にも立てなかったし、何と言うか、すまねぇ。」
- 「
- すまない、だなんて。」
- 「
- いや、俺ぁ後事を兄さんに託さなきゃならねぇんだ。馬車、置いてきちまった…。」
- 「
- そういえば、馬車はどうなさったんですか?」
- 「
- ああ、行けども行けども坊主が見つからねぇんで、あと少し、あと少し、と進むうちにちょっと戻れないところまで行っちまったから、馬車は次の宿に置いてきて、単騎で戻ってきたんだ(8)。こんなときに姉ちゃんを置いてくのは忍びねぇが、俺も生活がかかってる。馬車はそのままにはしておけねぇ。だから、面倒を兄さんに押し付けるかたちになっちまうが…。」
- 「
- いえ、もともと僕たちの面倒です。ここまでしてくれただけでも感謝の言葉がありません。」
- 「
- 姉ちゃん…。」
- 「
- うん、アルヨンの言うとおり。ブントはんのおかげで少なくともフィリシアは東にも西にも行ってないってことは分かったんやし。あとは…、
そうや、アルヨン! 北か南、それしかあらへんよ!」
- 「
- う…、うん、そうだね。」
- 「
- そないなわけやから、ブントはん、心残さず行って。むしろあての方が何かお返しせなあかんところやけど…、あはは、うちがほとんど身一つで出てきたんは知ってるよね。せやから…、」
わたしは立ち上がって懐から手巾を取り出すと、これに口付けをし、彼の右手首に巻きつけます。
- 「
- ブントはんの旅路に大地の祝福があらんことを。って、こんなことしかできへん。」
- 「
- すまねぇ。だが、ありえねぇたぁ思うが、俺が行ったより先に行ってたら、必ず拾ってアルダチュールまで連れて行くからな。」
- 「
- よろしゅう頼んます。」
ブントさんはラバを棹立たせると、そのまま後ろを向き、駆けていきました。その後、しばらく行っては振り返り、ということをしていましたが、すぐに濃くなりつつある夜の闇に消えていきました。
- 手がかり
ブントさんが見えなくなったので、わたしは再びアルヨンに視線を戻します。
- 「
- というわけでアルヨン、北か南なんやけど。アルヨンはどっち行く?」
- 「
- え? あれ、ブントさんを心配させないための方便じゃなかったの?」
- 「
- アルヨン、もしかしてフィリシアのことあきらめてる?」
- 「
- そうじゃない、そうじゃないけど。北は獣が出る山、南は道のない砂漠。今日エミーネたちがやったように二手に分かれて、ってわけにはいかないだろ?」
- 「
- せやけど、水なしで3日は生きられへん。二人して出かけて明日中に見つけられなかったら、フィリシアは死んでまう。」
- 「
- それに、フィリシアは真北や真南に歩いていったとは限らない。南西だったら? あるいは北北東だったら?」
- 「
- うぅっ…。」
- 「
- 何も探さない、といってるわけじゃない。もうすこしここで、フィリシアがどっちに向かったかを知らせてくれる手がかりを見つけようよ。」
- 「
- 昨晩、さんざん探したけど何も見つからなかったよ。」
- 「
- でも、手がかりはここにしかない。それとも、エミーネはフィリシアのことをあきらめたの?」
- 「
- むっ! 絶対にアルヨンより先に手がかりを見つける!」
わたしは憤然として立ち上がり、宿の中に入っていきました。もう痕跡はないのだから、聞き込みしかない、と思ったのです。
しばらくして、アルヨンが戸外からわたしを呼びました。
- 「
- どないした~ん?」
- 「
- ねぇ、フィリシアはどんな格好してた?」
- 「
- ん? ふつうの肌着に、例のいかつい鎖のついた足輪、それだけやけど?」
- 「
- これ、」
アルヨンは地面を指差します。
- 「
- ん?」
- 「
- これ、その足輪の鎖を引きずった跡に見えない?」
- 「
- あぁっ! これ!」
- 「
- うん、で、すこし辿ってみたんだけれど、ずいぶん続いてるみたいだ。」
- 「
- ほな、これを辿っていけば…。」
- 「
- うん、そうなんだけれど、こんなかすかな跡をこの暗い夜に辿っていくんじゃ、ちょっと追いつけそうにない。」
- 「
- 朝まで…、待つん?」
- 「
- いや、どうもフィリシアは真直ぐ南に歩いてるみたいだ。ほら、この跡の先、」
アルヨンは地面に残された跡を指で辿って、そのまま腕を挙げていく、その先に、
- 「
- 極星(9)!」
- 「
- うん、あれならこの暗さでも見失わないね。じゃ、水袋を満たして、フィリシアに届けに行こうか。」
というわけで、わたしとアルヨンは鎧を着てマントを羽織り、わらじの紐を締めて、装束を調えました。もはや慌てるというよりも、うきうきして。もうフィリシアが見つかることが決まったかのように。それは、アルヨンのおかげでした。実際、アルヨンが来るまでわたしは何もできなかったのに、今はフィリシアの行方の手がかりを掴んでる。アルヨンとなら、何でも乗り越えられる。それはわたしの自信であると同時に、アルヨンなしではなにもできない、という自覚でもありました。
- 告白
かくして、わたしとアルヨンは二人きり、星空の下、フィリシアを探しに砂漠を歩きます。情報交換はアルヨンの乗ってきた馬車で済まし、おしゃべりのネタはブントさんを待つベンチで使い尽くしたため、二人の間には砂を踏む音があるだけ。しばらくの静寂のあと、ふいにアルヨンがつぶやきました。
- 「
- 星々が瞬く音が聞こえてきそうだ。」
- 「
- いい耳、してるんやね。」
- 「
- わ、口に出してた?」
- 「
- そないにいい耳やと心配やわ。」
- 「
- 何が?」
- 「
- あての鼓動が、聞こえてまうんやないか、って。」
- 「
- え?」
- 「
- アルヨン、」
わたしは立ち止まり、振り返ったアルヨンの目を見据える。
- 「
- あてはアルヨンが好き。一番好きなの。聞いて、この胸の音。星よりもずっと大きな音で震えてる。
いまは、あて、いろいろトラブってるけど、アルヨンとならみんな解決できる。そしたら、そうしたら、全部終わったら、いや全部終わっても、あてと一緒にずっといてほしいの。
二人の家、二人の子ども、二人の残りの時間、それはアルヨンとのものであってほしいの。」
突然の告白に、アルヨンはまずびっくりしたようでした。そしてちょっと考えたようでした。
- 「
- その…、エミーネは可愛いし、僕もエミーネのために何かしてあげたいと思う。」
- 「
- あーあ!」
わたしは星々も驚いて目を覚ますような大きなため息をつきました。
- 「
- だめかぁ。」
- 「
- いや、だめって、僕はまだ何も…。」
- 「
- せやけど、あてと結婚の約束はしてくれへんのやろ?」
- 「
- う、うん…。」
- 「
- 他に好きな人、おるん?」
- 「
- いや、とくに決まった人は…。」
- 「
- ほな、タイプやなかったんや。」
- 「
- そうじゃない! エミーネは『二人の家、二人の子ども、二人の時間』と言ったね? 未来のことを。僕には、そんな未来のことは考えられない。」
- 「
- 『パレド・ブランカ(10)』?」
- 「
- いや、言い逃れじゃないよ。僕にはいま、課せられている使命があるんだ。」
- 「
- ほな、その使命を果たしたら…。」
- 「
- いつになることやら分からない。」
- 「
- せやったら、あてもそれ、手伝う。」
- 「
- 生きて果たせる、という見込みもあまりないんだ。」
- 「
- なんやねん、それ。自分の生命より大切な使命なんて、おかしいで。」
- 「
- 船は港にいるときが一番安全だけど、それは船が造られた目的ではない。」
- 「
- ? ぜんぜん意味、分かんないよ。」
- 「
- 僕のふるさとに伝わる言葉だ。良い悪いということじゃなく、この言葉の意味が分からないエミーネが僕と添い遂げることはない。生き方が違うから。」
- 「
- ふん。こんな振られ方、初めてやわ。」
- 「
- 僕のこと、失望した?」
- 「
- うん。」
- 「
- …。」
- 「
- こんなに可愛らしいあて、ガゼルのような黒くて美しい眼、サクランボのような甘くてつややかな唇、ナツメヤシのような白くて柔らかい胸、汲めども尽きん豊かな泉よりも、タイ・コラ・テックのしわくちゃの方が好みなんやもんねー。」
- 「
- いや、好みという点では…。」
- 「
- でも、自分にもっと失望してもうた。あては自分の好きばかりで、ぜんぜんアルヨンのこと、知ろうとしてへんかった。振られて当然やな、って。でも、いまでも好きやよ。好き、多分、ずっと。死んでほしくない。」
わたしは言いながら俯いていく。
- 「
- …、僕は何の約束もできないけれど…、」
アルヨンは腰を折って、俯くわたしを下から覗き込み、軽く唇を重ねて後ろへ退く。わたしは驚いて顔を上げ、口を手で押さえる。
- 「
- いまこのときは、エミーネ、僕を想うその気持ち、君が好きだよ。」
- 「
- …、ずるいわ。」
わたしはうれしさと気恥ずかしさが同時に熾ってきて、進むことも下がることもできず立ち往生してしまいます。あの時、キスした後にそのまま抱きしめてくれたら、こんなみじめな状態にならないで済んだのに、と思うと、イライラさえしてきました。見ると、あちらも立ち往生。ようやく口を開いたかと思うと、
- 「
- いや、とにかく和解できてよかった。」
- 「
- そ、そうやね。」
バカ。このときばかりは本当に失望しました。
- フィリシアとの再開
わたしはその後も物静かに歩いていきましたが、もはや星々の囁きは聞こえません。心の中のわたしがぶつぶつ文句を言っているのがうるさいからです。アルヨンがどういう気持ちで歩いていたのかは分かりませんが、彼も静かでした。黙々と砂を踏む音の連鎖の果てで、アルヨンはふと歩みを止めます。わたしは、いまさら、と思いましたが、
- 「
- これ、見て。」
彼が指したのは、ここらにはどこにでもある砂の窪み。向こうにある大きな岩が風除けとなってできたものみたいです。
- 「
- この窪み、人が寝た跡に見えない?」
- 「
- うーん、まぁ、見ようによっては。」
アルヨンは注意深く辺りを探ります。そして、
- 「
- あった、幸運の金の鎖の跡。」
- 「
- ほな、やっぱりフィリシアはここに?」
- 「
- うん、砂の崩れ方から見て、4分の1日前ってところかな。」
- 「
- ほな、追っかける?」
- 「
- いや、今夜は僕らもここで休もう。僕らは、彼女が2分の1日かけてきた道を、その半分で追いついた。明日には捕まえられるさ。
見張りだけど、エミーネはずっとフィリシアを探して疲れてるだろ? 先に休んでいいよ。」
- 「
- ううん、アルヨンもずっと歩いてきたんやろ? それにあて、いまは寝られそうにあらへんの。」
- 「
- そう? じゃ、悪いけど…。」
え? あっさり寝てやがる…。信じられない。でも、寝顔が可愛い。許す。
と、見張りも考えごともそっちのけでアルヨンの寝顔を見ているうちに、自分も寝てしまったのですが、朝日が射して目覚めると、アルヨンはきちんと起きて見張りをしているのでした。
ブントさんがおすそ分けしてくれた干魚を朝食としてかじりながら、アルヨンは今後の方針を述べます。
- 「
- うん、明るくなったことだし、ここを起点に鎖の跡を辿れば、フィリシアはすぐに見つけられるね。」
窪みから伸びる鎖の跡をいち早く見つけたのはピリューでした。そして彼は、とっとことっとこその跡を辿り、地平線に人影を見つけたのです。
- 「
- あれ、フィリシアか?」
- 「
- こんなところに一人うろうろしてる人って、他にいないと思うんやけど。」
- 「
- 確かに。じゃ、呼んでみよっか。
フィリシア~!」
人影はこちらを振り向いたようでした。手くらい振ればいいのに。でも、それがフィリシアらしい。わたしたちは人影向かって駆けていきます。
やはりフィリシアでした。彼女は荷物をまとめているところだったようです。足元には朝食の名残り、1キュビトほどの蛇の皮と骨が散らばっていました。
- 「
- どうしたの?」
それが、久しぶりに聞いたフィリシアの声でした。
- 「
- 君を探しにきたに決まってるじゃないか。」
- 「
- ご苦労さま。」
- 「
- フィリシア? 具合はどない?」
- 「
- とりあえず、立って歩けるみたいよ。」
見れば分かる。
- 「
- 無事で何よりなんだけど。どうしてまたこんな所へ?」
- 「
- さあ、何となく。」
- 「
- 何となく、じゃあ…。」
- 「
- 宿で眼が覚めたら、こっちの方に行きたい気がして。気がついたら砂の中にいたの。おなかが空いてたからそれを獲って、で、まだ砂漠の奥へ進みたいらしいかったから、じゃ、行こうかな、と思ったら、君たちに捕まったのよ。
ところで、ヤルトバーンは?」
- 「
- フィ、フィリシア、あんな…。」
- 「
- 処刑されたよ。」
- 「
- そう。」
それで、終わり?
- 「
- あ、バーンの遺品は回収しないとね。パヴィスに戻ろう。」
- 「
- そうだね、そうしよう。」
そして、わたしたちはフィリシアを伴って、とりあえず北上し、街道に出ることにしました。それにしても、フィリシアってこんな娘だったっけ? それともやはり、違う生き方に身を置いているのか。
しばらく歩いて、ふとフィリシアは歩みを止めて振り返りました。
- 「
- アルヨン、わたしを縄で縛って。」
- 「
- は?」
ここまでクールにやり取りしてた二人だったけど、これにはさすがにアルヨンも了解できない様子。
- 「
- わたしの身体が、砂漠へ行きたがるの。起きてる内はいいけれど、眠るとまたどこかへ行くと思う。」
- 「
- 砂漠へ行きたがる? なんで?」
- 「
- 知らないわ。」
- 「
- 無意識に、ということか。いつから?」
- 「
- 砂漠を出てから、ずっと。」
- 「
- これまでは動けなかったから表面化しなかった、ということか。で、動けるようになると、昨夜のようになる、と。困るな。確かに、縛らせてもらえるなら、安心できる。」
アルヨンは肩にかけてあった荒縄でフィリシアを縛り始めました。
- 「
- アルヨン、人を縛るの、上手いねー。あてなんか、チュニックの紐を締めるときも縦縛りしてまうのに。」
- 「
- 人を縛るのが上手い、というのはちょっと語弊が…。」
- 「
- ぶふっ、ほんま、人攫いみたいやな。」
- 「
- アルヨン、頼んでおいて何だけど、もう少し柔らかい紐はないの?」
- 「
- あるわけないだろ? 事情が事情だから、我慢して。」
かくして、ケロ・フィンのごとき気高いフィリシアも、わずか数刻で自由を失ったのでした。
しばらく歩を進めて、
- 「
- それにしても、何で砂漠なんかに行きたがるかな。獣すら足踏みするというのに。あ、ひょっとして“あれ”で弱らせられたせいかな? 心まで蝕んだのかも…。ん? エミーネ、エミーネは大丈夫? そういう兆候はない?」
- 「
- あ、あらへんよ。」
ある、と言ったら縛られる。とっさにわたしはそう思いました。
- 「
- じゃ、原因は別なところにあるのか?」
- 「
- 人は時に愛を厭う。」
- 「
- 何て?」
- 「
- ランカー・マイの学者はんが言ってはったんよ。そういう人も中にはいるけど、社会的にその願望が抑圧されてるんやて。」
- 「
- 赤イトキニ、ヨク焼ク。なるほど。確かにナマは危ないな。」
でも、それを言われたのはわたしなのです。パヴィスを出た頃から、何か飢えのような満たされない感じが心にありました。
それは、アルヨンへの慕情なのではないか、と思ってた。けれど、再会してもまだ満たされない部分があった。
それは、将来への不安なのではないか、と思った。けれど、それを払拭することはできなかった。
不本意な夜のあと、日差しとともにわたしを包んだ南からの風がわたしを満たした。
砂漠だけがわたしを満たすことができた。砂の粒がさらさらと微笑んで、わたしを歓迎している…。
- 「
- …豚も味はいいけれど、やっぱり僕は羊の方が…、エミーネ?」
- 「
- きゃあ!」
アルヨンの声でふと我に返り、わたしは自分の考えにぞっとしました。砂漠がわたしに求婚している…、という考えに。
- 宿に戻る
わたしたちはその後も北上を続け、夕方には街道に出ることができました。
- 「
- ここ、どの辺だろ?」
- 「
- あのブントはんと分かれた宿から2里ほど東に行ったところやと思う。あて、フィリシアを探すためにきょろきょろして歩いてたから覚えてる。」
- 「
- う~ん、引き返すか、野宿するか。」
- 「
- アルヨンもピリューも足が痛むんやろ? やっぱり屋根のあるところで休んだ方がええで。」
そんなわけで、昨夜までの宿へ引き返すことになりました。
ようよう日が沈むにつれ、フィリシアが落ち着かなくなりました。所在無げな子犬のようです。やがて、
- 「
- 悪いけど、ちょっと行ってくる。」
- 「
- どこにだ、フィリシア。」
アルヨンはフィリシアを縛る縄をたくり上げ、彼女を引き寄せます。
- 「
- エミーネ、猿ぐつわだ。」
- 「
- えーっ、そこまでする?」
- 「
- フィリシアはいまはまだ理性がある。だけど、なりふり構わなくなって叫びだしたら? 人攫いー、とか。」
- 「
- フィリシア、堪忍な。これはアルヨンのアイデアやからね。」
結局、わたしでは上手く縛れず、わたしが手綱を持って、アルヨンが縛ることになりました。
- 「
- ねぇ、アルヨン。フィリシアの寝る前のおしっことか、どないする?」
- 「
- うーん、やっぱり散歩に連れてかなきゃならないかな。お願いできる?」
- 「
- あてが?」
- 「
- じゃ、仕方ない、僕がやるよ。」
- 「
- やります。させてください。」
今はわたしがいるから、わたしがフィリシアに付き合ってあげられる。これで、わたしまでこうなってしまったら、アルヨンがわたしたちを散歩に連れて行くの…? 二頭の牝犬がキャンキャンキャン。これは、まずい。自分の砂漠への傾倒を知られてはならない。わたしはますますそちらの方へ注意を向けていくのでした。
ようやく宿屋に着いたものの、気苦労からは解放されません。宿の主人がわたしたちをいぶかしんでいるのです。そもそも、悪天候でもないのに旅の宿に何日も逗留するだけで怪しいのに、あからさまに攫ってきたような肌着姿の女性ないし少年を連れている。彼がわたしたちを、この旅館を拠点に暗躍する人攫いと思ってももっともなことです。
- 「
- おっちゃん、あてのこと覚えてるやろ?」
- 「
- ああ、荷馬車の男が置いていった娘だ。」
- 「
- そう。なら、この娘も覚えてるやろ?」
- 「
- 女とは思わなかったが、覚えてる。前は、こんな風に縛られてはいなかったがね。逃げた獲物を捕まえてきたのか?」
- 「
- そう。おっちゃん、話が早いやんか。」
- 「
- そうじゃない。あ、わたしは彼女の友人でアルヨンといいます。」
- 「
- ああ、昨日、見たよ。」
- 「
- 彼女、フィリシアといいますが、病気、というか憑き物なんです。で、パヴィスで払ってもらおうと思って。」
- 「
- この娘はパヴィスの方から来たじゃないか。」
- 「
- ええ、ええ。旅の途中で憑かれたんです。だから仕方なく引き返すんですよ。」
- 「
- ふん、お前さんらは人攫いじゃないんだな。だが、官憲が誘拐犯を探しに来たら、俺は誰であろうと犯人を匿ったりしないからな。」
- 「
- もちろん、もっともだと思います。」
- 「
- で、狐憑き嬢は夜に騒いだり暴れたりしないだろうな?」
- 「
- …、多分。」
- 「
- 多分じゃ困る。4人か。銀貨を20枚払えるなら個室を用意してやるが?」
- 「
- 払えない、としたら?」
- 「
- 馬小屋だな。銀貨を5枚、頂こう。」
- 「
- 普通に泊まるのと変わらないじゃないか。」
- 「
- 不満か? ここから8里行くと、また別の宿があるが。」
- 「
- 銀貨5枚だな、分かったよ。」
アルヨンが渋々銀貨を手渡すと、宿の主人はこんなやつらに構うのは損とばかりにすぐに消えました。わたしたちはすごすごと宿の裏の馬小屋に入っていきます。
- 「
- やあ、今晩は厄介になりますよ。」
アルヨンは馬に挨拶。皮肉な気分になっている模様。
- 「
- ま、やっとわらじが脱げる。これだけはありがたい。」
- 「
- うわ、アルヨン、足のつめが割れてるで…。」
- 「
- ん。あ、僕よりもピリューを診てくれる? 多分、もっとひどいはずだ。」
- 「
- 分かった。」
わたしはピリューの横にひざまずき、まず触診します。すると、ピリューが小さな悲鳴を上げました。脚絆を取り去ると、彼の足の甲は両方ともひどく腫れ上がっていました。
- 「
- どうして、こんなになるまで言わなかったん。」
- 「
- これはひどいな。僕が気づきべきだった…。何とかできる?」
- 「
- とりあえず水で冷やして、腫れをひかす。あとは安静にするしかないやろ。3日くらいかな。あ、寺院でもろうた亜麻仁油があるから、これを塗れば痛みはひくはずや。アルヨンも、これ、ヨモギを足にこすっとくと疲れが取れるで。」
- 「
- ありがとう。」
アルヨンが立ち上がってわたしからヨモギの葉を取ろうとしたとき、フィリシアの手綱がするすると彼の下から離れていく。アルヨンはすかさず手綱を足で踏み、これを許さない。フィリシアは手繰り寄せていた綱を離し、そっぽを向く。
- 「
- ちょっと夜風に当りたくなったのよ。」
- 「
- まったく、油断も隙もないな。」
- 「
- まあまあ。フィリシア、あてが付き合うよ。」
一回りして帰ってきて、わたしは手綱をアルヨンに返しました。すると、アルヨンはそれをぐるぐる腰に巻きつけます。アルヨンとフィリシアの間にわたった綱は1尺ほどになりました。
- 「
- 暑いわ。」
- 「
- 僕もだ。だが、仕方ない。今夜は僕と添い寝してもらおう。」
- 「
- エミーネ、代わって。」
- 「
- え、えーっ? フィリシア、なに言うてんの!」
- 「
- いや…。アルヨンと代わって。」
- 「
- あ、ああ、そうやね。」
こうしてこの晩は、わたしはフィリシアを抱えて、アルヨンとピリューは足の痛みを抱えて、それぞれの夜をすごしたのでした。
- 認識
翌朝起きてみると、わたしはフィリシアを背中から抱きしめていました。あるいはフィリシアは迫るわたしから逃げようとしているような格好でした。無意識は二人の心情を形に表したようです。わたしたちは立って藁を落とし、宿の土間へ行って他の宿泊客の朝食に混ざってきました。
他の客が次々と旅立つ中、わたしたちは置いてけぼりです。何をすることもなく、わたしとフィリシアは“心地よい”南風が吹く、木陰のベンチで座っていました。しばらくすると、アルヨンも馬小屋から出てきます。
- 「
- 暑くないの? 君たちは。」
- 「
- ん? 気にならなかったね、そう言えば。ピリューはどう?」
- 「
- いま、寝たところ。だからつまらないんで出てきたところだ。何か話してた?」
- 「
- んーん、別に。」
- 「
- 二人して、座ってるだけ?」
- 「
- そう、優雅やろ?」
- 「
- RuneQuest の冒険者たるもの、寸暇を惜しんで訓練すべきではないのか?」
- 「
- 何か言うた?」
- 「
- いや、僕も優雅な時間のご相伴に預かりましょ。」
すでにベンチに座る二人に遠慮するのか、それとも暑苦しさを避けたのか、アルヨンは木の根に座りました。
- 「
- それにしても、今回もまた厄介なことになってきたね。」
- 「
- も? ああ、あの時のこと。どちらがましかしら。」
- 「
- まあ、あの時も大変は大変だったけど、あの時は全員生きてた。」
- 「
- そうね。」
ああ、アルヨンはヤルトバーンの死の悲しみを今まで誰とも分かつことができなった。わたしとは分かつことができなかったのだ。
- 「
- あて、そろそろピリューの様子見てくるわ。」
二人から逃げるようにして馬小屋に入ると、がっくりとうなだれた。フィリシアに想い人を取られるのが悔しいのか、と自問してみる。いいえ。あれだけ看病させておいてのこの仕打ちに怒っているのか。いいえ、いいえ。フィリシアに対する好意は変わらない。いや、以前はその透明な美しさに見惚れていただけだったが、いまやアルヨンに頼りにされるほど、女だてらに自らを高めた彼女に敬意すら抱いている。翻って自分ときたら、自分はほとんど必要とされていない、と思う。わたしの方だけが、アルヨンがいないと困るのだ。
なぜ、困る? わたしの心がアルヨンを愛しているから。いや、支えとしているから。依存しているから。
なぜ、依存する? わたしの心は自力で立っていないからだ。
わたしの心が自立していないから、わたしはアルヨンを愛する。わたしの心が自立していないから、アルヨンはわたしを愛さない。ならば、わたしの心が自立しているなら、わたしはアルヨンを愛さないだろうか? 否、とはいまは断言できない。
それにしても、ぜんたい自分はこれほど弱かったろうか? たしか、ヒョルトランドでは目を背けたくなるような前線で張り切って働いていたはずだ。あの頃の自分は、いまのわたしからはまるで別人のように見える。なぜなら、いまのわたしは弱いから。砂漠の風が吹くたびに、風がわたしにお前は弱い、お前は弱い、と告げるから。
うなだれながらうじうじと考えをめぐらせて、挙句に涙ぐんできた頃、厩の戸が乱暴に開けられ、アルヨンとフィリシアが飛び込んできます。わたしはびっくりしたせいで、すこし怒鳴ってしまいました。
- 「
- 何事やねん! 病人が寝とるんやで。」
- 「
- あ、いや、ごめん。パヴィス方面から巡視隊が来たもんだから、慌てちゃって。」
- 「
- たったの4騎だけどね。」
- 「
- ああ、悪人の肩身の狭さだね。」
わたしは二人の傍らをすっと抜けて、戸外に出ようとします。
- 「
- あの、エミーネ? どちらへ?」
- 「
- 木陰に戻るんよ。ピリューもすやすや寝てて問題ないし、あては二人と違ってやましいことないし。」
アルヨンが制止するより早く、わたしは戸外に飛び出したため、彼はもう追ってきません。見ると、巡視隊はすでに宿の前で馬を下りており、宿の少年に手綱を渡していました。
彼らの一人がわたしと目が合ったので、わたしは普通に会釈します。
- 「
- ほ~、乳がやたらとでかいから豚かと思ったが、なかなかいい背中のラインだ。」
- 「
- …。」
- 「
- ふん、睨みつけるかよ、帝国の番兵を。だが、気丈な女もいいもんだ。へっ、へへ…。」
- 「
- バカ! お前、ここは荒野の真ん中じゃないんだぞ。こんな上玉をわざわざ先に警戒させてどうする?」
- 「
- はん、じゃ、色男ならどうするんだ?」
- 「
- 最初はあくまで紳士的に、だ。
- 連れが失礼した、お嬢さん。その、お詫びに食事でもどうだろう?」
全部、丸聞こえなんですけど。同じく帝国の犬でも、この前のカルマニア人たちは敵ながら立派だったのに、現地の連中と来たら…。これで遡った末の血は同じ(11)、というのだからまったく嫌になる。それでもわたしは婉然と笑みを返して、
- 「
- ご厚情に感謝します。」
こうして、4人の兵士とわたしは食事を共にしました。といっても、わたしは魚の小骨を取ったり、お酌したり、と接待に追われます。食後の西瓜を食べながら、わたしは連中の西瓜の種を取りながら、一心地ついたのか、兵士たちはまたわたしに絡んできました。
- 「
- お嬢さん、わたしは夢に何度もあなたのような人を見ていましたが、それが今日会って分かりました。あなたがわたしの夢に訪れたのだ、と。この日の出会いは運命としか思えません。わたしたちは必ず再会するでしょう。いまは立ち去らねばなりませんが、後日まであなたを待つよすがにあなたに御印を賜りたいのです。あなたのいない夜の寒さの中で思い出せるよう、いま、あなたの温もりを知りたいのです。」
- 「
- …。」
- 「
- 色男よ、こんな年増女はロマンスには酔わねえよ。
- なあ、姉ちゃん、4人あわせて銀貨10枚でどうだ? 悪くねえだろ。」
- 「
- …。」
- 「
- お前は親父過ぎるんだ、出歯亀。
- 金はともかくとして、どうだ、こんな屈強な男が前に後ろに右に左、だ。こんな経験はめったにできねえぞ。」
- 「
- お前らみんな回りくでぇんだよ。
おい、お前、なめんのも大概にしろよ? 俺たちゃお前なんか反逆罪でしょっ引いて、荒野に連れ出してから好きなだけ楽しんだら、あと腐れないようその場で処刑したって構わねえんだからな。お前から頼めよ、わたしの下腹が疼いて疼いて仕方ありません、兵隊さんたちの立派な槍でめちゃくちゃに掻き回してください、ってな!」
ふ~ん、色男に出歯亀、あとの二人は差し詰めマッスルとけだものか。
- 「
- 皆はんのご好意は嬉しいんやけど、あて、お腹に子どもがおりますねん。」
- 「
- はん。子どもか…、おっと紹介がまだだったな。あとで挨拶にいくぜ。戸口にノックをこんこん、すこん、ってな。ひゃーはっはっは。」
- 「
- そないな無体言わはれましたら、困りますわ。なあ、お義兄はん。」
わたしはこちらになるべく関わらないようにして向こうにすり抜けようとする宿の主人に向けて放ちます。
- 「
- え、えぇ? あぁ、申し訳ございません。うちの嫁が何か粗相でもいたしましたか?」
- 「
- あぁ? この女はお前の弟の嫁か? ちっ、時間を無駄にしたぜ。」
- 「
- あいすいません。ご紹介が遅れてしまいました。」
- 「
- はん、不調法の礼に飯代は借りとくぞ。おい、みんな、そろそろ行こうぜ。」
憤懣やるかたない、という感じで兵士たちは荒々しく宿を出て行きます。
- 「
- はぁ~、親父っさん、おおきに。」
- 「
- 何がおおきに、だ。俺まで巻き込みやがって。どうすんだ? 俺に弟なんかいないんだぞ?」
- 「
- じゃ、今度来たら、2人して遠くに行ったって、言うたら?」
- 「
- そんな見え透いたうそが通じればいいけどな。いずれにせよ、お前は俺に迷惑をかけた。すぐに出て行ってもらいたい。あ、いや、すぐはまずい。明日の朝一番で出てけ。」
- 「
- はい、えろうすんませんでした。」
- 「
- 俺ともう一人の被害者にも心の中で謝っておけ。」
- 「
- もう一人の被害者?」
- 「
- そうだ。お前はうまく立ち回ったつもりかもしれないが、まったく男心を分かっていない。あそこまで期待させておいて、連中がすんなり諦めると思うか? 必ず道中で罪のない娘を浚って自分たちの獣欲とお前への復讐を果たすだろう。」
- 「
- そないなこと…。」
- 「
- そんなことまで面倒見切れない、か? だから分かってない。連中が言ってたろ、こんな上玉、と。めったに会えない、と。言っちゃ何だが、お前さん程度の器量ならそこらの村にも1人か2人はいるはずだ。それに出会えないのは、パヴィスの賢い娘たちは身の処し方を弁えているからだ。それをのこのこと。」
ああ、わたしはここでもまた…。今度は黙って頭を下げると、逃げるように厩へ戻ります。
- 「
- エミーネ、また無茶なことをして。心配したよ?」
- 「
- 堪忍、アルヨン、フィリシア。」
- 「
- いいのよ。もし、連中があなたを連れてここに来たら、連中を鏖殺するつもりだったし。手間が省けたわ。」
- 「
- と、ご覧の通り、フィリシアも心配してたんだよ。」
- 「
- …。」
- 「
- 気晴らしに、また風にでも当たりに行く?」
- 「
- ううん。いまになってどっと疲れてきたみたいやから、ちょっと横になる。」
- 「
- そう。なら一人で行くわ。」
わたしは藁の山に膝を抱えて座り込み、頭をうずめます。すると、正面にアルヨンが回りこんできました。
- 「
- 怖かった?」
- 「
- うん、でももう大丈夫や。大丈夫やから、悪いけど、一人にしてくれへん?」
- 「
- え?」
- 「
- ごめんな、ちょっと考えたいことがあんねん、一人で。」
- 「
- そう? じゃ、気が変わったら表に出ておいで。」
そう言うと、アルヨンも厩を出て行きました。
- エミーネの失踪
ひとしきり泣いて、そのあと考え込み、わたしはこの一件が終わったら別のところに移ろう、と決心を導き出しました。ここでは自分は必要とされていないから。
表では、剣戟の音が聞こえ始めていました。暇をもてあまして、2人でチャンバラをしているようです。わたしは涙を拭うと、2枚の手ぬぐいをもって外へ出ました。
- 「
- ご精が出まんね。」
- 「
- お、手拭いとは気が利いてるね。やっぱり1人じゃつまらなくなった? フィリシア、一息つこうか?」
- 「
- 負け逃げする気?」
- 「
- ふぅ、女剣士殿はまだ僕を苛めたりないとの仰せだ。ちょっと待ってて。」
- 「
- あてはいいんよ。それより、応援してるから負けんといて。」
2人は間合いを取って、それぞれに構える。フィリシアは左腕を挙げて盾を水平にし、その上に右手の片手剣の長さの木剣を載せている。アルヨンは両手剣の長さの木剣を正面に構える。アルヨンはこちらに対しているのだけれど、彼の掲げる剣にすっと収まって、剣しか見えない。フィリシアの方もそうなのだろう。
しばらく動かないでいた2人だけれど、突然フィリシアが後ろへ退いた。アルヨンはまったく動いたように見えない。フェイント、ということだろうか。さっぱり分からない。続いて仕掛けたのもまたアルヨンだ。今度は剣を振るって脚を狙う。左右には逃げられない。フィリシアは上へ跳んだ。アルヨンの剣が切っ先を変えて突き上げられる。跳んでは左右に逃げられない。と、フィリシアは上空で縮こまるようにして跳び上がった脚を胸まで持っていき、左手の盾を下に向けてアルヨンの剣を迎える。フィリシアは自分が地面に降りながら、盾を剣の周りを沿わせるように持っていく。彼女は地に脚を着けたときもなおしゃがんだままで、盾は剣の下に来ている。フィリシアは盾を持ち上げながら立ち上がる。アルヨンの剣は元々振り上げる格好だったから、容易に上げられてしまう。フィリシアは立ち上がるときに左脚を半歩前に踏み込んで、右手の剣はまさにアルヨンの腹を突かんとしていた。
- 「
- 参りました。」
- 「
- 受け入れましょう。」
- 「
- ていうか、フィリシア、真剣だったらあんな曲芸めいたことできないでしょう?」
- 「
- だから、練習でしてるんじゃない。」
- 「
- フィリシア、ほんまに強いんやねぇ。いいなぁ。」
- 「
- ん? エミーネも強くなりたいの?」
- 「
- うん、なれたらええな。無理やろけど。」
- 「
- 無理ってことはないよ。まあ確かにエミーネは腕力がないんだけれど、いまのフィリシアの戦い方、見たでしょ? 大きい剣は懐に入られたらどうしようもない。要は、戦い方さ。」
- 「
- ほな、あてでも強くなれる?」
- 「
- うん、なれるよ。修練を積めば、ね。」
強くなる、と保障されて喜色を浮かべたところへ、フィリシアが待ったをかけてきました。
- 「
- ねえ、エミーネ。でも、どうして強くなりたいの?」
- 「
- 自分くらい自分で守れたらええな、思うて。」
- 「
- 無駄よ。」
- 「
- そ、そないな…。」
- 「
- いや、フィリシア、そんな風に言ったら…。」
- 「
- 自分を守るって、何から? アルヨンは見ての通りなかなかの腕前だけど、わたしには勝てない。それに彼より弱い相手でも、4~5人に囲まれたら?」
- 「
- そんな事態になる前に逃げるよ。」
- 「
- 強い、といってもこんなもの。誰よりも強くなる、なんて言ったら際限がない。そのうちに、強くなることが目的になってしまう。よしんば最強になっても、何を誇るのか。ただ強くなるためだけの強さは、孤独な強さね。フマクトのように。」
- 「
- ほな、フィリシアは何のために強くなろ思うたん?」
- 「
- わたし? そうね、いまはあなたを守るためよ。」
- 「
- そな阿呆な。あてら、知り合うてからまだほんの数週間やんか。」
- 「
- もちろん、あなたははじめに強くなりたいと思った動機ではありえないけれど、わたしはいつも自分の存在理由を探している。それがいまはあなた。もしあなたがいなかったら、わたしは誰もいない部屋の蝋燭と同じ。むなしく光を照らすだけ。そんなものはもったいないから、消してしまった方がいいわ。
だからエミーネ、あなたには強くなるよりも、もっと守られるべき人になってほしいの。」
- 「
- 弱っちいままでいろ、と。」
- 「
- だけじゃなく、もっと賢くなって。はっきり言って、今日のあなたは不快だったわ。ついでに言うと、わたしたちが初めてあったときの戦闘で、あなたはわたしの貸した剣杖を振るってたけど、あれも不快だった。」
- 「
- ご、ごめんなさい。」
- 「
- やっぱり、謝られたわね。別に謝罪してほしくてきつく言ったんじゃないの。ただ、はっきりさせて置きたくて。あなたが戦場でうまく立ち回れないからってあなたの価値は少しも減じない。あなたの価値は、そう、例えばわたしの場合、この数日、あなたがわたしの世話をしてくれなかったら、いまのわたしは無いわ。本当に感謝してるの。」
- 「
- ううん、あてこそ、ありがとう。励ましてくれて。」
- 「
- 励まし…。いいえ、わたしの言葉、じっくり考えてみて。ああ、喋りすぎてのどが渇いたわ。」
フィリシアはきびすを返して宿のほうへ向かっていきました。それをアルヨンが追っていきます。
- 「
- フィリシアがこんなに喋るとはね。吹雪にならならければいいけど。」
- 「
- …。」
- 「
- エミーネが心配? でも確か、君の方が年下だったと思ったけど。」
- 「
- なんだかずいぶん辛いことがあったみたいね。そこから抜け出そうとして、さらに石に躓いたり、壁にぶつかったり。よくあるけど。原因、アルヨンには覚えがある?」
- 「
- え? 無いよ。」
- 「
- そう。なら、いいけど。アルヨンも気をつけていてあげて。」
フィリシアの問いにも係わらず、わたしは彼女の言葉の字面に捕らわれていました。わたしは弱い上に賢くもない。挙句にすねて可愛くもない。フィリシアはやっぱりわたしに恩義は感じているのだろう。でも、動けるようになった彼女にいまのわたしは不要。むしろ、足手まとい。フィリシアがわたしのために強くある、と言ってくれたように、わたしもアルヨンとフィリシアのために強くありたいのに。でも、わたしが強くなっても、2人ももっと強くなってしまう。いつまでたっても、わたしは足手まとい。ああ。
ああ、せめて、パヴィスに帰るまでは2人の邪魔にならないようにしよう。笑顔を向けて、明るくしていよう。
考えどおり、わたしは戻ってきた2人に笑顔を向け、話を盛んに振り続けた。ちょっと雰囲気はぎこちなかったけれど、それでも破綻はしなかった。2人もそれぞれ明るい雰囲気を保ち続けようと支えたからだ。こんな日もある。これでも、うじうじ考え、めそめそ泣いて過ごすよりはましだ。何より、2人の優しさにも触れられた。
やがて夕食を済ませ、日が落ちる頃、フィリシアは厩に戻って件の縄を自分から持ってきました。
- 「
- 日が沈む前に、縛って。」
- 「
- いや、中でやろう。」
3人は厩の中へと入っていく。入ってすぐに、ピリューの様子を伺う。経過は良いようだ。が、長旅をするほど回復しているわけでもない。
- 「
- ピリューは、どう?」
- 「
- うん、ぼちぼちやね。」
- 「
- ま、また馬車を拾ってもいいし、何なら僕が背負っても構わない。
- ピリューは小さいから、RuneQuest のルールでも気絶まではしないだろう。
- ま、いずれにせよ、明日は歩きだ。早々に寝ることにしようよ。」
それを潮にそれぞれは毛布に潜り込みました。フィリシアがもぞもぞと落ち着きないようですが、それはいつものことです。わたしはといえば、もぞもぞとはしないものの、目は覚めて寝付けそうにありません。アルヨンとのことや、自分の存在理由などをぐるぐると考えるうちに、涙まで出てきます。わたしは勾配のある藁の山の斜面に寝ていましたが、膝を引いてたて、腰を起こして屈みこみました。わたしのへこんだ時のスタイルです。
ふと、自分の前に存在を感じて顔を上げると、闇から影が切り離されてこちらに向かってきました。
- 「
- こんばんわ、エミーネ。」
- 「
- ジェナートさま(12)。」
- 「
- わたしだと、すぐに分かったかい?」
- 「
- ええ、ジェナートさまの声はこの数日、砂漠の風とともに聞いていましたから。」
- 「
- ん? 泣いていたのか?」
彼は腰を屈めてわたしに顔を近づけ、頬を伝う涙を唇で吸いました。人間と同じ、温かい唇。
- 「
- こんな薄情な男のために綺麗な雫をこぼすことはないよ。君がいくら想っても、この男は君のものにはならない。君が昼に考えた通りだ。」
- 「
- …。」
- 「
- 大体なんでこんなつまらない男に執心なんだい? ああ、分かったよ。君は、人ならぬわたしが怖いんだね? で、わたしへの愛を否定するために、この男を愛している、と信じようとした。本当は、男なら誰でも良かったのだけれど。」
- 「
- ち、違います。」
- 「
- ああ、違った、違った。同道したヤルトバーンやカルマニアの騎士よりも、こいつは君をむかし救ってくれた男に似ていたからね。」
- 「
- …。」
- 「
- そう言えば、カルマニアの騎士君はどうした?」
- 「
- はっ!?」
- 「
- 死んだよ。渇き死んだ。君を信じて待つあまり、日陰に移りもできずにね。」
- 「
- 彼、あてを恨んで果てたんでっか?」
- 「
- いや、最後まで君の身を案じていたよ。」
- 「
- ああっ…。」
- 「
- まぁ、仕方ないじゃないか。君は君で、それどころじゃなかったんだし。」
- 「
- それどころ、て…。」
- 「
- わたしの言葉尻を捕まえるのは筋違い、でしょ。君の気持ちだ。所詮、君も含めて、人間のような弱い生き物は自分で手一杯だと、他に目が行かなくなる。仕方ない。」
- 「
- …。」
- 「
- そんなものにすがって救われるとは、とても信じられないだろう?」
- 「
- …。」
- 「
- まぁ、こんな男はナノとかいう小娘にくれてやるがいいさ。知ってるだろ? 彼女もまたこの男を憎からず想っていることを。君は彼女より老いているという負い目からそれを疑い、また、彼女より経験豊富であるという自負からそれを受け入れたがらないようだけれど。」
- 「
- …ナノに。」
- 「
- 肉体は老いて色褪せる、これは自然の摂理。そして結局は相手の肉体を愛している男女の情もまた移ろってゆく、これも仕方ない。」
- 「
- 人間の仲には永遠はありえない、ゆえに価値もない、そう言わはる。」
- 「
- いや、無価値ではないよ。信頼も対処可能なほとんどの危機には有効だし、男女の情なんかは子どもをつくるための動機付けだけでもう十分だ。永遠でないから無価値だ、というのは君の見解だ。」
- 「
- …。」
- 「
- わたしなら君の願いに応えることができる。わたしは自分で手一杯になるほど狭量じゃないし、わたしが愛しているのは君の魂だからわたしの愛が移ろうこともない。何と言っても、わたし自身が永遠だ。」
- 「
- あてなんか、そんな大層なもんに応えられるもんやないですわ。」
- 「
- 求めているのはわたしの方だよ。あ、それともわたしが君に見合うほどのものではない、ということかな? でも、さっきわたしの唇を温かい、と思っただろう? 唇だけじゃない。何もかも、君の求めるままだ。」
彼にじっと目を凝らすと、そこにはあの少女の日にわたしを水から引き上げてくれた海賊の少年が立っていました。
- 「
- そないな…。」
- 「
- 初恋の人は、いつまでも忘れられないものだね。」
- 「
- 失礼やけど、悪趣味やと思います。」
- 「
- 何を言う。わたしに実体はない。これは君が見たいと思うわたしの姿だ。それが証拠に、ほら、また変わってきた。」
今度は、彼は最上の白サテンの衣に青羅紗の上衣を羽織って優雅に決めた、ノチェットの上流子弟のような服装の、背の高い30前後の男になっていました。
- 「
- うん、なかなか格好がいいね。さてと、まだ決心がつかないみたいだね。こちらの作戦失敗か。ならば、君は優しい娘だから、こんな話もしてみよう。君はこれ以上彼らに、アルヨンとフィリシアとピリューに着いていっても、足手まといだよ。彼らはこれから非常に強大な敵と相対しなければならない。それはもう決まっている。そのとき、君の存在が彼らの命を危険にさらすことになる。」
- 「
- ジェナートさまは未来も知ってはるんどすか?」
- 「
- 全部じゃないけどね。でも、これは知ってる。最終的には君は理を解して、わたしの下へ来てくれる、と。そうだよね?」
- 「
- …はい。」
わたしはジェナートさまの手を取って立ち上がり、そのまま彼の手に引かれて、闇の中へ消えていくのでした。
-
もちろんどの宿屋にも屋根はあるのであり、これは皮肉。
-
当時の辺境では、先天的不具は憐憫ですらなく、蔑視の対象だった。
-
Androgeous of Jesalma. 説明は、本文中にあるとおり。
-
イェルムが黄泉に下ってから曙までの、「嵐の時代」と「暗黒の時代」を含めた言い方。
-
1ルナーの4分の1は2クラック5ボルグに当たるが、この時代の記述にはなぜか銀貨の4分・8分という表記がなされる。実際に人間の間でボルグ貨が使用されたとも思えず、また細分された銀貨も発掘されていないことから、このような記述は「銀貨1枚の4分の1の価値がある何か」、例えば穀物などの量を指すものと思われる。こういうものは季節で価格が異なるので、穀物の量そのものでは書き表さないのだろう。
-
夕食は、旅人の到着時間がそれぞれ異なるのでこういう効率的な食事にはならないのだろう。また、この時代、まだ安定した熱源はなく火は貴重であったため、パンを焼くにしろ米を炊くにしろ、それは朝にまとめてなされ、人々はその糧が暖かくおいしい朝に、より多くを食べた。
-
この一連の話が始まる前のことであろう。そのエピソードは不明。
-
帝国内の幹線道路ならともかく、辺境の悪路では馬車は速度において徒歩と大差がない。
-
極星は、無論グローランサの天蓋の中心に座して動かないきわめて明るい星であり、このパヴィスやサーターの辺りでは、南の空に55度ほどの高さで見える。
-
La Pared Blanca 。ヒョルトランドで大当たりした恋愛劇のタイトル。ホワイトウォールからサーターへ出撃する襲撃者たちの一人が、女と一瞬の恋をする、という話。その中に、「明日? そんな先のことは分からない。昨日? そんな昔のことは覚えていない」という名台詞がある。
-
氏族は共通の血統を紐帯とする集団であるが、その氏族の祖はみな神話に結び付けられているため、神話も遡るとウーマスにたどり着く。そういう論理でゼイヤラン人は究極的には血族ということになる。
-
ジェナーテラ大陸を象徴する大地の神。神々の戦いのさ中、ここプラックスで混沌の神の手にかかって死んだ。彼の死は大陸に更なる闇と寒さをもたらした。
- Appendix 1 : Al'yon's Dream: Plums in the Desert
- アルヨンの夢:砂漠の中でみつけたプラム
- 「
- ヤルトバーン、死んでしまったのか…。」
寂寥感がアルヨンの双肩に圧し掛かる。こんな日は一人でいることには耐えられそうもない。
- 「
- そうだ、エミーネ、彼女は元気でいるだろうか。」
足は自然とアーナルダ寺院へと向かっていく。会ってはいけない。だが、会わずにはいられない。すでに、寺院の門番には自分の顔を知られている。ならば、とアルヨンは寺院から出てくる者にエミーネを呼び出してもらおうと画策した。
しばらくして、通いの平信者らしい少女が扉を開けて飛び出してくる。アルヨンはその影に寄り添うようにして、門番の視界の外で少女に話しかける。
- 「
- アーナールダ寺院にエミーネという女性がいるはずだが…」
突然現れた男に、少女は驚いたようだが、とりあえずは応じてくれた。
- 「
- 寺院はあちらですよ。」
- 「
- そうじゃないんだ。僕は寺院に入れないんだ。」
- 「
- あのぉ、嫌われてるならしつこくしない方が…。」
- 「
- 身内に不幸があったので伝えたい、それだけなんだ。」
- 「
- なら堂々と寺院に行けばいいじゃないですか。」
- 「
- そうしたら、そんな人はいない、と門前払いされたんだよ。」
- 「
- ごめんなさい。わたし、急ぎますので。」
もはやエミーネにも会えないのか、アルヨンはそう覚悟せざるを得ないと思い込まされた。過酷な荒野での逃避行、友の死、得られぬ慰めの上、この少女の冷たい仕打ちにアルヨンは打ちのめされた。
足を引きずるようにして、宿に帰る。自分にわずかの銀子の代償にあてがわれた部屋の戸を、身体を預けるようにして押し開く。夢の中を歩くようだ。そして、お帰りなさい、の声を聞いて、かえって自分はまだ夢の中にいるのだと思った。耳をなぶる優しい声。うなだれた頭を上げると、そこには寂しい自分が求めるものの具現があった。プラムのような瑞々しい唇、葡萄のようなたわわな胸、そして自分を見つめる潤んだ瞳…。
- 「
- お帰りなさい。」
- 「
- ただいま…、ナノ。」
- Appendix 2 : Al'yon's Dream: Pieces of the Dream
- アルヨンの夢:夢のかけら
アルヨンは、夢の具現を前にして、己の衝動の高まりを感じながらも、残った理性のかけらを口の端からこぼしてしまう。
- 「
- …ナノ、だけど、君はどうしてここに?」
- 「
- 何、言ってるんですかぁ。アルヨンさんが、来てほしいって、ここ、教えてくれたんじゃないですかぁ。」
もはやアルヨンは立ち止まっていなかった。掻き抱くべき者の方へと大きく一歩踏み出し、彼女を抱えるように彼女に両手を回し、右手で腰を、左手で右肩を支え、こぼれるような彼女の双眸を熱く見つめる。
- 「
- ナノ…」
- 「
- …えっと、大事なことを忘れる前に。エミーネさん、アルダチュールに行きましたよ。アルヨンさん、こんなところにいていいんですか? えっと、これ、手紙を預かってます。」
…エミーネ? 誰だっけ、それ。
- Appendix 3 : Al'yon's Dream: the End of the Dream
- アルヨンの夢:夢の果て
ナノは預かっていた手紙を取り出そうと、アルヨンの身体からすり抜け、彼の鼻の先に黄ばんだ葦編紙を差し出す。アルヨンがそんなつまらない抵抗を片手で剥ぎ取ろうとした刹那、うつつの声が彼の鼓膜をたたく。
- 「
- アルヨン、腹へった。」
- 「
- …ピ、ピリュー…。」
ナノが階下の酒場から取ってきた大してうまくない料理を、うまくなさそうに食べながら、アルヨンは己の衝動をなだめていた。そうだ、自分には自分を心から好いてくれる、かけがえのない女性がいるじゃないか。エミーネ、彼女は今頃どうしているだろう。
市場でサーター方面行きの行商人を捕まえたアルヨンは、それに同乗すると、無言でただひとつのことを考えながら、馬車にゆられて西へと運ばれていった。数日後、地平線の果てからこちらへ駆けてくる者があった。
- 「
- エミーネ!」
- 「
- あ、アルヨン、わ~い。」
アルヨンは走っている馬車から飛び降りて、彼女の方へと駆けて行く。そして、自分にとってかけがえのない女性をしっかりと抱く。
すると、エミーネは両手を突っ張って自分からアルヨンの身体を引き剥がし、叫んだ。
- 「
- 大変なの。フィリシアが、いなくなってもうたんよ!」
…フィリシアって、誰だっけ?
- Appendix 4 : Casts
- キャスト
エミーネ・ハナルダ:エスロリア出身の看護婦。“癒し手”アーナールダの信者。人間の女性、22歳。
Emine Hann'ernalda: a Nurse from Esrolia; an Initiate of Ernalda, the Healer; Human Female, 22.
|
STR |
6 |
CON |
18 |
SIZ |
8 |
INT |
15 |
POW |
11 |
DEX |
16 |
APP |
15 |
|
Move |
3 |
HP |
13 |
FP |
24-15=9 |
MP |
11+6=17 |
DEX SR |
2 |
|
Insanity |
38 |
Depending on Al'yon |
22 |
|
R. Leg |
0 |
/ |
4 |
L. Leg |
0 |
/ |
4 |
Abdomen |
3 |
/ |
4 |
Chest |
3 |
/ |
5 |
R. Arm |
0 |
/ |
3 |
L. Arm |
0 |
/ |
3 |
Head |
4 |
/ |
4 |
|
運動 |
(+6) |
回避 55% |
操作 |
(+9) |
修理 10% |
交渉 |
(+9) |
オーランシー男性を睨みつける 55% 雄弁 10% |
知覚 |
(+9) |
聞き耳 30% 視力 30%[c] |
知識 |
(+5) |
応急手当 38% 植物知識 30% 製作,辛い料理 25% 病気の治療 20% 毒の治療 20% 動物知識 15% 製作,搾乳 15% 製作,剃毛 15% 人間知識 15% 鉱物知識 15% 世界知識 15% 鑑定 10% カルト知識 10% |
隠密 |
(+8) |
|
魔術 |
(+9) |
呪付 12% 召喚 12% 浄化 10% |
言語 |
|
Esrolian 35/15 Sartarite 18/- |
|
武器 |
SR |
A% |
/ |
D% |
ダメージ |
AP |
備考 |
剣杖 |
6 |
9 |
/ |
6 |
2D6+2 |
10 |
フィリシアから借りてる |
かま |
8 |
14 |
/ |
11 |
1D6 |
6 |
|
|
精霊魔術 |
(9-15=-6) |
発動率 |
49% |
治癒 II |
|
神性魔術 |
(9-15=-6) |
発動率 |
94% |
収穫祈願 x1 ヘビ支配 x1 傷の治癒 x1 |
|
防具: |
胴体および頭部にクイルブイリ、その上で頭部に薄い革 |
財産: |
2ペニー。医療鞄、麻と毛の衣服、ナイフ、かま、麻袋、発火具と火口、気の精霊を呪付した指輪 (POW 6) 、治癒焦点魔漿石 (POW 1)、フィリシアから借りた剣杖。 |
|