Selānīkī, Mustafā Efendi [? - c.1008/1600]

Mehmet İpşırlı, shortened by the Editors


ムスタファー・セラーニーキー・エフェンディ(1008/1600年頃死去)、オスマン官僚にして歴史家。

彼の若い頃や家族的な背景はほとんど知られておらず、彼がいつ生まれ、死んだかもあまり明らかではない。しかし彼は自らをサロニカ Salonika/Selānīk と結びつけ、セラーニーク Selānīkü と自称したが、そのときには明らかに老年に達していた。[彼について]知られていることのほとんどすべてが彼の Tarīkh-i Selānīkī から発している。そこでは彼は自らのキャリアを詳述している。そこには立法者スレイマン Süleymān Kānūnī 及びその後継者たちの治世中のさまざまな軍事遠征(例えば、1566年のハンガリーのシゲトヴァル Szigetvar 遠征)に従軍したことや、そうした事件への彼の観察などが記されている。彼が就いた多くの役職の中に Haramayn の徴税請負人 mukātā 'adı of the Haramayn がある(988/1580年まで)。彼は dawādār であった。彼は太刀持ち silahdār、すなわち当時のスィパーヒーたちの秘書であったこともある(996/1589年まで)。999/1591年、時の大宰相フェルハト・パシャ Ferhad Pasha は彼を国庫収支台帳登記官 rüznāmedji に任じた。彼は属州アナトリアの会計長 muhāsebedji も務めた(1007/1599年)。そしてちょっとしてから彼は歴史の記録上から姿を消した。

Tarīkh-i Selānīkī は971/1563年の出来事から始まり、1008年10月/1600年5月の総督カーシム Voivode Kāsim の監禁からの脱出で閉じられており、このようにメフメト3世の治世までの4つの治世に触れている。それは形式に沿った年代記ではなく、著者の注意を引いた出来事の日記帳というべきものである。彼は後でその構成をするつもりであったのかもしれないが。そ[の記述]はムラト3世の治世の終わり(1003/1595年)からだんだんと詳細になってくる。セラーニーキーは他の史書を参考にするよりむしろ自分の国家の指導者たちとの接触や御前会議 Dīwānī Humāyūn の議事録などに情報を頼っていたように思われる。彼は時の宰相たちのことを述べるのと同じくらい、詩人バーキー Bākī やイスラームの長老であったスン・アッラー・エフェンディ Sheykh ul-Islām Sun 'Allāh Efendi についても述べている。Tarīkh-i Selānīkī は当時の一次史料ではあるが、12世紀初頭/18世紀まで広く使われたり写されたれたりすることがなかったように思われる(しかし今日、その写本は25部以上存在する)。[Tarīkh-i Selānīkī では]例えばペチェヴィー Peçewī、キャーティプ・チェレビィ Kātib Çelebi、ナイーマー Na'īmā に共通する事件の扱い方[と]はまったく違っている。ソラクザーデ Solak-zāde は明らかに承認もなくそれを使っているが。セラーニーキーの作品の魅力は彼が事件に関連していたということばかりでなく、これらの事件や彼がオスマン国家の全般的な衰退として受け取っていたものへの批判を含んでいるということである。彼の度重なる任命と解任による職歴の上下はここにおける彼の態度に影響したかもしれない。

Tarīkh-i Selānīkī は1281/1864-5年にイスタンブルで部分的に印刷された。完成こそしなかったが、Mehmet İpşırlı, pp.LXXXV + 1,008, Istanbul 1989. [の出版]までは決定版であった。


Bibliography: Von Hammer, GOR, iii, 750, iv, 168, 181, 185d, 243, 435; Babinger, GOW, 136-7; İpşırlı, Mustafa Selaniki and his History, in Tarih Enstitüsü Dergisi, ix (1978), 417-72; İA, art. Selaniki (Bekir Kütükoğlu).