‘Ālī [948/1541 - 1008/1600]

K. Süsshiem - R. Mantran


ムスタファ・アーリー・ビン・アフマト・ビン・アブド・アルマウラー・チェレビィ Mustafā b. 'Abd al-Mawlā、16世紀のトルコ文学におけるもっとも傑出した代表者の一人。

948/1541年にガリポリに生まれ、10歳よりペルシア語とペルシア文学の優れた専門家であるスルーリー Surūrī やアラブ人詩人のムヒュイルッディーン Muhyi 'l-Dīn の下で学んだ。965/1557年、彼は[スルタン位の]後継者セリム Selīm に『ミフル・ウマーフ Mihr u-Mâh 』と題した詩を献呈した。それは彼の将来のキャリアを決定する第一歩であった(Dozy, Cat. cod. or. bibr. Acad. Lugd. Batavae, ii, 128. を見よ)。彼は王子の家庭教師であり、長い間この重要人物に秘書として仕えてきたムスタファ Mustafā の同郷者団体の一員となった。即位したセリム2世はアーリーのこの地位を確かなものにした。同じ頃アーリーは国璽尚書 Nishāndjī との面識を持ち、国璽尚書を通じて数多くの事件に関する知識を得た。976/1568年に彼はムスタファのエジプト行に同行したが、その訪問はムスタファの免職により不意に終わらされた。1570年、ムスタファはキプロス征服を任じられた軍の司令官に移され、アーリーは彼の書記としてオスマンの陸海軍の偉業を目の当りにした。以後数年間、アーリーはルメリアで過ごし、980/1572年に大げさな文体でスレイマン1世 Suleymān の治世の終わりとセリム2世の即位を描写した Heft Madjlis あるいは Heft Dastān を編集した(MS Lāleli, Istanbul, no.2114; printed edition in the collections of the Ikdām)。同じ頃彼は主にカスィーダ様式の詩 kasīda とガザル様式の詩 ghazal で構成されたトルコ語の詩集を編纂し、ペルシア語の詩集 dīwān も作成した(Flügel, Die arab., pers., und türk. Hss. der K.K. Hofbibl. zu Wien, i, 651. を見よ)。しかしながら、アーリーはわずかな感性あるいは感受性を示しているだけの二流の詩人と評価されている。1577年にムスタファがペルシア遠征の司令官に移されたときに、アーリーは再びムスタファの書記となった; 彼はコーカサス発の数々の勝利報告を著した。彼はコーカサス、とくにギーラーン、シールワーン、グルジアの住民の習慣と伝説に関する多くの情報が集まる地域にとどまっているという有利さを得ていた。ムスタファの失脚の後、アーリーはイスタンブルに戻った。アーリーの保護者の突然の死はアーリーを難しい位置に置いたが、それは彼の文筆活動の妨げとはならなかった。彼はスルタンに創世と預言者の奇跡を説明したMir'āt al-'Awālim を献呈した(MSS: İstanbul Üniversitesi Kütüphanesi, nos. 17397-96; Esad Efendi Kütüphanesi, no.2407; cf. Flügel, loc. cit., ii, 94; Pertsch, Verz. d. türk. Hss.… zu Berlin, nos.36, 558)。その後まもなくして、彼はイラン遠征を扱った Nusrat-nāme を完成させた(Esad Ef. Kütüp., no.2433; Rieu, Cat. of the Turk. MSS. in the Brit. Mus., p.61)。オスマン帝国で行われた最重要の行事の1つ、後継者メフメト Mehmed の割礼祝いは彼が描写的な作品 Djāmi' al-Hubūr der Madjālis al-S$3r で王子の知己を得た祭典であった(Istanbul, Nurosmaniye Kütüp., no.4318)。

995/1586年に彼は数百に及ぶ書家、細密画家、製本人に関する重要な資料を集めた Manākib-i Hunerwerān を著した(Flügel, loc. cit., ii, 386; edited by İbnülemīn Mahmūd Kemāl, Istanbul 1926. を見よ)。同時代のアラビア語作品のトルコ語訳である Zubdat al-Tawārīkh も著している(Flügel, ibid., ii, 90; İstanbul Üniversitesi Kütüphanesi, nos. 2378-2386. )。彼は神秘主義と汎神論へ関心を託して聖人の階層と影響に関する情報を詳述した Hil-yat al-Ridjâl を著した(Rieu, loc. cit., p.19; Pertsch, Die türk, Hss.... zu Gotha, 75 ; Istanbul Üniversitesi Kütüphanesi, nos.1329, 404.)。彼は Lā''ihāt al-Hakīkāt と題した詩集も編集した(Rieu, loc. cit., 261; İstanbul Üniversitesi Kütüphanesi, nos.651, 1963.)。アーリーがイェニチェリ軍団書記に任命され、さらに帳簿保存局局長 defter emīni となったとき、彼は歴史の道筋を自分たちの時代へたどり下ることに専念していた。彼はムスリム世界で最高の本の集積地であったカイロで作品を作ることを望んでいた。即位したメフメト3世はアーリーに特権的な扱いを授け、彼をエジプトの属州財務長官 defterdar に任じたが、時の宰相 wazīr たちの敵意がアーリーにこの官職を失わしめた。1000-1007/1592-99年の間、彼は4部からなる大作 Kunh al-Akhbār を著した(1277/1861年から1285/1869年の間にイスタンブルで5巻本で印刷された、それはメフメト2世の治世までを扱っている。残りの150年間を扱った非印刷版も存在する)。第1部では、彼は預言者に関する古い伝説を列挙している。第2部では、彼はムハンマドとイスラムを扱う。彼はイスラムの発達において彼の民族が重要な役割を果たしたと確信し、第3部は「トルコ-タタールの章」と題された。第4章は諸国家の建設とオスマン史に当てられている。地理に関する事典も添えられている。Kunh al-Akhb7r はオスマンにおける最重要の史書の一つに数え上げられている。アーリーによる前イスラム時代の情報に大した価値はないが、オスマン史の、特に16世紀に関しては極めて価値がある。彼の真実への情熱は時のスルタンの批判へ彼を向かわせることすらあり、おおむね彼は非ムスリムについて好意的に語っている。彼の文体は、はじめの頃は詩的であったが、長ずるにしたがってだんだんとシンプルになっていった。

のちに彼はムスリム世界の概略史を著した。Fusūl al-Hall wa 'l-'Akd Usūl al-khardj wa 'l-Nakd と題された作品で、トルコ語におけるもっとも一般的な作品の一つとなっている(例えば、the MS in Nuruosmaniye Kütüphanesi, no.3399. を見よ)。アーリーの分筆活動に報いるためにアーリーはジッダの知事 pasha に任じられた。1008/1600年、彼は遺作となった Hālāt al-Kāhira min al-'Ādāt al-Tāhira という短いが重要な作品を著した(MSS: Esad Efendi Kütüphanesi, no.2407; Cairo, Bibl. Khédiv., Cat. des ouvr. turcs, 197)。アーリーは同年に死んだ。

アーリーはとりわけ魅力的な人物である。だけれども彼の往来した集団では暴力と陰謀とが慣例となっていたように思われる。だからアーリーは自らを忠実で、親切で、公正であると常に示し続けてきた。彼の誠実さとまじめさはなぜ彼がこの時代の粗野で下品な人々の好意を得そこなかったのかを説明している。著名な大宰相スィヤウシュ・パシャ Siyawush Pasha すら彼を侮っていた。他方、この時代の幾人かの著作家は彼の友人であった。


Bibliography: J. von Hammer-Purgstall, Gesch. d. osman. Reiches, iv, 308, 651 ff.; idem, Gesch. d. osman. Dichtkunst,, 115 ff. ; Mehmed Tāhir b. Rif'at, Müwerrikhīn-I 'Othmāniyyeden 'Ālī; we-Kātib Čelebi'nin Terdjüme-i Hālleri, Salonica 1322/1906; Ibnülemīn Mahmūd Kemāl, op. cit. Cf. also Cat. cod. or. bibl. Acad Lugd. Bat., 1893, v. 57; Flügel, loc. cit., ii, 94; Journal Asiatique, 1869, 76, 90 ff.